神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

日比谷図書館員中條辰夫を取り巻く文学青年・女流作家・画家たち

金子光晴『詩人』(平凡社、昭和48年12月。初出は『ユリイカ』昭和31年10月号〜32年6月号)の「「明治」という荒地の中で」によると、

肺尖カタルという病名で僕は、三ヶ月寝た。その頃僕は、保泉良弼、良親の兄弟と交際するようになった。保泉を僕に紹介したのは、中条辰夫だった。
この文学青年の一団は、『明星』を主流とした日本詩歌のロマンチシズムの後塵を拝する時代の人たちで、殊に保泉の兄の方は、『東京景物詩』*1時代の北原白秋のディレッタンチズムに心酔していた江戸趣味の文学青年達だった。その仲間には水上おぼろ、森れじな、福田辰夫、邦枝完二等がいた。彼らは吉原仲ノ町の引手茶屋を発行所にして、雑誌『丹前』を出していた。(略)中条は、ドストイェフスキー心酔で、耽溺的な、重苦しい性格の青年だったが、このグループのなかで、いちばんながく僕との交際がつづいた。彼は、日比谷図書館に勤めていたが、おなじ図書館に秦学文や、ロシア文学の原久一郎がいて、交際はその人たちの方までひろがっていった。

金子の年譜に大正4年9月慶応義塾大学文学部予科に入学したが、肺尖カタルで三ヶ月ほど休学、とある時期の話だ。
秦が日比谷図書館に勤めていたというのは確認できないが、事実だとすると、これまた中島岳志先生も知らない話かしら。
なお、「福田辰夫」は正しくは、福田辰男で、「里見とんの野球事始」(2009年3月6日)で言及した久米正雄や里見とんらと野球チームを結成していた一人で、従来経歴不詳とされている探偵作家である。私の調べでは、本名(又は別号)を武智三太郎ということが判明している。

話を金子の『詩人』に戻すが、その「デモクラシー思想の洗礼」では、

『魂の家』という標題は、彼が考えた。僕と中条で編集して、この雑誌は、三号まで出たが、体裁から内容まで、中条のこのみだった。執筆者も彼がつれてきて、原稿の取捨も彼の一存だった。泰学文、佐野袈裟美、原白光(久一郎)などの他に、その頃うり出してきた吉屋信子の原稿ももらった。須藤郁子、青木しげ子など、女流の作品ものせた。

とある。佐野は、明治45年早大英文科卒。中條の周辺にはなぜか早大英文科卒が多い。

また、金子は、『西ひがし』でも、中條の人脈について次のように書いている。

この前田春声君と知りあったのは、お互いに二十歳前後のことで、紹介したのは、やはり、僕の文学趣味の指嗾役だった中条辰夫君であった。彼中条は僕がびっくりするほどたくさんな先輩同輩の知人をもっていた。見知らぬ有名な先輩の家に、なんの人みしりもなく訪ねてゆく勇気をもっていて、そのうえ、無類に粘りづよく、門前払ごときにおじ気づかない重厚な押しをも兼備していた。詩人ばかりでなく、片上伸とか、秦学文とか、吉屋信子とか、青木しげ子とか、東郷青児とか、坂本繁二郎とか、村松梢風とか、保泉良弼とか、その他、既に認められた、また、有望視されているさまざまな芸術家と知りあいがあったらしい。

片上も明治39年早大文学科卒なので、ここにも早大出身者が出てくる。画家たちとはどうやって知り合ったのだろうか。

金子は大正10年1月末に欧州から帰国しているが、神田の今文で開かれた歓迎会には中條のほか、福士幸次郎サトウ・ハチロー佐藤惣之助、富田砕花、佐佐木茂索平野威馬雄、井上康文らが出席したという。金子と中條の交際で確認できるのは、この時が最後である。ただし、金子は、『詩人』の「寂しさ」で、まだ生きているが、日頃は音信もしない古い連中として、中西悟堂(昭和59年没)、黒田忠次郎(昭和46年没)、加藤純之輔とともに、中條の名前をあげているので、音信もないのになぜ生きていると言えるのか疑問もあるが、戦後も生きていたようだ。

中條については、書物蔵氏が困難なミッションをこなしてくれて、大分経歴が判明した。私も、原満三寿『評伝金子光晴』の巻頭「金子光晴アルバム」にある、大正8年1月25日神田の常盤で開催された『赤土の家』出版記念及び渡仏送別会の記念写真(『新進詩人』同年3月号掲載)のキャプションに中條の名前があるのを発見したので報告しておく。

(参考)「中條辰夫という日比谷図書館児童部職員」(9月25日)、「中條辰夫と中村屋サロン」(9月27日)及び「書物蔵」の「中條辰夫 biblio?」。

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*1:「東京景物詩」は『屋上庭園』1号、明治42年10月掲載。『東京景物詩及其他』は東雲堂書店、大正2年7月発行。