神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

独文学者相良守峯と仏文学者の付き合い

良守峯『茫々わが歳月』に、渡辺一夫森茉莉の長男山田爵が出てくるので、紹介しておこう。

昭和二十五年
仏文の渡辺一夫君は篤学をもって鳴る学者で、皆に敬愛されていたが、かたわら絵も描いた。七月下旬、私の肖像を描いてくれるというので、同氏の家で二時間ほど坐らされた。数日後それが出来上って頂戴したので、お礼の意味で新宿へ引っ張りだし、焼鳥屋だの、「三姉妹」という飲み屋だの、方々飲み歩いた。この肖像画は今でもわが家に保存されているが、絵の巧拙には触れないでおこう。

  四十一年
同(九)月六日、成城大学の独仏語合同懇親会を原宿の「南国酒家」で行なう。帰りに山田爵氏と新宿二丁目の「のみ」に寄る。

「三姉妹」は古くからあったようで、同書によると、

昭和三十六年
同(十二)月三十一日、城山良彦古見日嘉両君から、今日の大晦日に一献を交わしたいと誘われて、新宿の三日月、利佳、みづほ、三姉妹と飲み回り、十一時に帰宅。上記の「三姉妹」は、第二次大戦後の焼け跡に逸早くバラックの飲み屋をつくったのが末娘のふみちゃんで、他に飲み屋のなかった当時、われわれのクラブ的存在であった。長姉おけいさん*1は後に東北沢で酒亭「けい」を出した。今の「三姉妹」は別のところに新築した近代的バーである。また「利佳」のマダム利加さんは前に「ととや」の雇われマダムであった。終戦後の新宿駅横に雨後の竹の子のごとく出来たハーモニカ横丁の飲み屋は、ふみちゃんの「三姉妹」よりも後である。「よしだ」、「利佳」、「かっぱ」、「道(ママ)草」、「ナルシス」などのマダム連はこのハーモニカ横丁から巣立ったもので、作家、教授、ジャーナリストを主とする酒客は、やはりこの横丁から巣立ったものといえよう。私も青野季吉亀井勝一郎池島信平田辺茂一その他の学者や文人諸賢とは、初めこれらの飲み屋で知合いになったのである。

渡辺の絵はあまりうまくなかったような記述だが、渡辺は六隅許六の名で仏文学者たちの著訳書の装幀も行っていたという。「daily-sumus」のカテゴリー「渡邊一夫の本」参照。

(参考)4月12日

*1:同書昭和28年1月3日の条によると、長姉の名前は、「遠藤けい」というようだ。