神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

報知新聞記者佐瀬酔梅こと佐瀬得三

黒岩比佐子さんが、佐瀬得三について、「どこかで見たような記憶がある」とし、同じ著者の『当代の傑物』を読んだことがあったのを思い出したと書いておられた。この「どこか」としては、もう一つ江見水蔭の『自己中心明治文壇史』の可能性もある。同書によると、明治34年6月29日日本鉄道会社の主催で、新聞・雑誌記者が助川海水浴に招待されたが、その中に報知の佐瀬得三があがっている。ちなみに、他の記者は、長田秋濤(二六)、松居松葉(萬朝)、石橋思案(中央)、小林天龍(萬朝)、武田仰天(東朝)、遅塚麗水(都)、泉斜汀(紅葉の随行)、井上與十(東毎)、尾崎紅葉(読売)、江見水蔭(太平洋)、内田茂文(人民)、坪谷水哉(太陽)、永島永洲(時事)、岸上質軒(太陽)。

佐瀬は佐瀬酔梅でググると、「ことバンク」がヒットする。このほか、山口昌男先生が重宝して使っているという平凡社『新撰大人名辞典』(復刻:『日本人名大事典』)によると、

佐瀬酔梅 サセスイバイ (一八六三−一九一七)明治中期の書家。文久三年生る。名は得三。得所の次男である。北海道にあって新聞記者として活躍しのち上京、報知新聞社に入る。(略)大正四年五月書画筵を両国倶楽部に開く。これは操觚界を退き、今後書家として世に立たんとする披露会であつた。(略)雅筵開催後幾もなく大正六年十月十日*1歿、年五十五。 

村井弦斎とは少なくとも明治34年から39年まで同僚だったことになり、弦斎の研究上も重要な人物のようだ(6月28日参照)。

追記:大正6年10月12日付報知新聞夕刊によると、佐瀬は同月10日没。同社入社は明治30年10月という。

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いつのまにか半井小絵たんの指輪は、人差し指だけになってた。単なる気まぐれか、何か意味があるのか。と書いたら、この日は小指だけにしていた・・・

*1:「ことバンク」に10月1日とあるのは誤り。