神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

田端の天然自笑軒の創業者宮崎直次郎

天然自笑軒を利用した著名人の追加。数を集めて何か意味があるのかわからないが、とりあえず記録しておこう。

小林一郎作成の田山花袋年譜によると、大正13年12月25日夜、田端の自笑軒で『源義朝』の出版記念会が開催され、島崎藤村徳田秋声上司小剣正宗白鳥、吉江孤雁、芥川龍之介、中村星湖、前田木城、吉井勇宇野浩二中村武羅夫細田源吉、加能作次郎、岡田三郎、藤沢清造岡本一平ら24名が出席。

また、小林の年譜に記載はないが、大正6年12月21日付読売新聞の(上司)小剣「一日一信」によると、有島(生馬?)、中村(星湖?)の世話で「天然自笑軒の会」が開催された(日時不明)が、(近松)秋江は欠席、二人の愛らしい子供*1を連れた島崎(藤村)や、田山(花袋)も出席したという。

芥川龍之介の法要は何度も自笑軒で開催されているが、そのうち三回忌(昭和4年7月24日開催)について同月25日付読売新聞を見ると、佐藤春夫、里見弓享、長田幹彦室生犀星久保田万太郎、小穴隆一、佐々木茂索、小島政二郎らが出席している。

この他、文人ではないが、渋沢栄一の日記にも、

明治45年3月24日 午後五時田端ナル自笑軒ニ抵ル、大川平三郎氏ノ招宴ナリ、兼子同伴ス、田中栄八郎氏来会シ、大川夫妻ト共ニ款待至ラサルナシ、茶懐石ノ夜飧ヲ畢リ、後、点茶アリ、又余興数番アリテ夜十時寄宿ス

とあった。

自笑軒の創業者宮崎直次郎の経歴は、小林素次「「天然自笑軒」−宮崎直次郎−」(『大衆に愛された作家・趣味人たち』東京都北区立中央図書館)によると、

宮崎直次郎 安政4年梅谷家の次男として生まれる。明治5年宮崎愛吉(「受吉」との記載もある)の養子となる。若い頃、米相場師から兜町で株仲買人となる。当初は本郷湯島2丁目25番地に居住していたが、20年頃には日本橋中洲4番地に移転。号を鉄及と言い、裏千家13世円能斉門下で茶や花を活け、一中節(宇治紫山門下)を語り、料理を作る趣味人であった。41年東京府北豊島郡滝野川町大字田端343番地(現北区田端)に畠地400坪を借り、茶人田中宗卜の監修により別宅を新築した。中洲の旧宅は長男平太郎に譲って隠居し、店は大番頭の加藤が継いだ。44年9月10日天然自笑軒を開業(「引退後、明治41年田端に茶亭「天然自笑軒」を建てる」との記載もある)。大正14年1月9日没。墓は専修寺(品川区西大崎)所在。

自笑軒の開業年は明治41年なのか44年なのかはっきりしないが、41年2月16日付東京朝日新聞に、宮崎が株式仲買を廃業し、店員加藤忠七郎を後継人とする広告があるので、仲買人を引退してすぐに店を開業したとすると、41年が正しいことになる。

追記:近藤富枝『文壇資料田端文士村』によると、「明治四十一年に、田端に四百坪の畠地を借りて移ったのである。ここで(宇治)紫山の出稽古をうけたり、客に料理を出して喜ばれたりしているうちに、とうとうすすめられて、会席料理天然自笑軒の看板をかかげることになった」とあり、明治41年別宅新築、44年別宅を天然自笑軒として開業と見るべきか。

(参考)8月2日

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NHK教育テレビ「歴史は眠らない」の倉田真由美「婚活白書」のテキストを見た。第3回目の8月17日には黒岩比佐子さんが登場する予定とのことで、楽しみですね。

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SAPIO (サピオ)の「日本の宗教を仕分けする」特集を立ち読み。ここにもちらっと出てたが、某教団のレムリアとかエドガー・ケイシーとかは懐かしいが、教祖本人が好きなのか、ブレーンに『ムー』を読んで育った人がいるのか。しかし、今時ケイシーとは・・・

*1:長男楠雄は明治38年10月生、次男鶏二は40年9月生。