神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

ロシア文学者片上伸の海外逃亡?(その2)


片上伸のロシア旅行に関して追記したけれど、量が多くなったので、出国以前と以後に分けることとした((その1)は12月25日)。

大正13年
6月30日 片上妻来


7月5日 片上妻、いよいよ退京ときめしとて来


7月6日 日高、宮島新三郎来、片上の件


7月7日 吉江来、片上より電報にて入露の事を大学より外務へ云々


7月12日 片上妻、吉江妻と共に来


7月17日 田中穂積を訪ふ、片上入露の件、


7月29日 片上ハルビンより一信


8月25日 日高来、片上の妻 紀州へ退きて毎月150を要求する件、已に書肆其他より約壱千円を受取り持ち行きし件、貯金あり千円のうち二百円を送りし件、早大よりの300は露の片上の分として取除けおきたる由等語る


8月26日 和歌山の片上朝子へ月々の出費のことの[ママ]つきて忠告書送る


9月1日 片上の妻より返書、月々150送りくれよ云々
夕食後 おせきと日高を訪ひ、右の返書を渡し、移転の祝ひに熱海の産物を贈る


10月11日 片上の件、原、馬場より新聞紙上ニ発表


大正14年
(三月手記)
○片上伸事件をオクニに口授筆記させて田中理事と日高と片上とへ手紙


9月29日 午後 日高来 此日 片上東京着


10月2日 帰朝の片上にはじめて会ふ
(略)
五時前、吉江、日高、片上来会、はし本より料理取りよせ 雑談、九時前解散


10月14日 片上伸 紀州へ行とて暇乞ニに来る


大正13年10月11日の「新聞紙上ニ発表」の内容は、確認できていない。
また、大正14年3月に片上伸事件について、田中穂積、日高只一、片上伸へ送られた手紙が存在すれば、同事件の真相がわかるかと思うが、どこかに存在するだろうか?


片上の出国時の様子が当時の新聞でわかったので紹介。


大正13年6月24日付け東京朝日新聞は、「早大の片上教授 突然辞職露国に赴く 裏面に一部の排斥運動蟠るか 両三年は帰国せず」の見出しの下、「由来氏は何事につけても厳格な性質で教授に対しても学生に対しても決して手緩い態度を採らなかつたため、非常な反感を買ひ、近頃になつて或る動機からそれが一層激しくなり、遂に某々教授や学生が一段となつて排斥運動を始め、数日前にはその代表者が氏の私宅を訪うて辞職勧告をなしたといふことである」とある。
また、「辞職の理由は自分だけの問題 学部の問題ではない 出発の前夜、片上氏語る」の見出しで、片上は次のように語ったとしている。

『いや、其の事なら文学部の主任になつてからの問題で殊に一昨年弟の問題があつた時に退き度いと考へて居たが高田総長や坪内さん、金子さんなどから切に留められたので其の儘今年の一月に改めて学部長になつた様な訳です
然し今度辞めるのは大学の内部に起つた問題では無く全く自分一個の意志から出たと云ふ事を申し上げ度い、嘗て或る新聞に教授間に何か暗闘めいた問題があるかに伝へられたがそんな事は全然ない、実は自分の研究して居る露西亜に行くが為でずつと前から此の意志で総長を初め文学部関係の教授達とも相談をして居た訳で、愈今度其の諒解が出来た次第です。(略)』


ロシア行きについて、「ずつと前から(略)相談をして居た」とはよくもまあ、言ったものだ。
ところで、或る新聞に載ったという教授間の暗闘というのは確認できないが、小谷野氏の『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』にある「早稲田の文学部には、片上派と吉江派があったようである」という記述と関係があったら面白そうである。


追記:『神戸の古本力』が『銀花』の「書物雑記」で紹介されていた。


店頭で稲垣恭子『女学校と女学生』(中公新書)を見る。佐藤八寿子『ミッション・スクール』(中公新書)では、「猫を償うに猫をもってせよ」が引用されていた(同ブログ9月26日参照)が、今度はそれはなさそう。
(小谷野氏が早速、批評をアップしている)