神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

「二六新報」の秋山定輔


日本新聞博物館で、既に「言葉の戦士 涙香と定輔−明治新聞人の気概を知りたい」展が、開催中(4月22日(日)まで)。以前(1月21日)、「二六新報」の秋山定輔って知らないと書いたけれど、長山靖生日露戦争』(新潮新書)に出ていた。すっかり、忘れていたよ。それと、最近、勉強がてらに読んだ坪内祐三『近代日本文学の誕生』(PHP新書)にも、「明治37年3月「二六新報」の秋山定輔が「露探」事件に巻き込まれる」として、立項されていた。


秋山は、『明治新聞雑誌関係者略伝』によると、


秋山定輔 あきやまていすけ
明治元年七月七日生、昭和二五年一月一九日没。八十三歳。岡山県倉敷出身。
明治二四年東京帝国大学法科大学卒業。一時会計検査院に奉職したが、同二五年一〇月辞任。明治二六年一〇月二六日『二六新報』を創刊。同二八年六月、一旦休刊。同三三年二月一日(?)同紙を再刊。以来同社の社長として同紙を主宰。明治四四年社長の椅子を秋田清に譲ったのちも永く同紙の実際上の指導者であった。[参考]村松梢風著『秋山定輔は語る』(昭和一三年)


同展には、坪内祐三黒岩比佐子長山靖生の諸氏は行きそう。わしも、こっそり行こうかしら。


亀井貫一郎の自伝「五十年「ゴム風船」を追って」は、何度も読んだはずだが、秋山定輔が登場していたことを失念していた。

昭和七年八月 麻生、亀井、秋山定輔先生の下に参集し、宮崎龍介氏等と共に、駐日大使蒋作賓、参事官鄭昌久(後・外交部書記官)を通じ、国民党との間に、満州独立より生じたる日中の緊張を緩解、新日中関係の樹立に奔走す。


昭和十一年十二月 西安事件によって、国共合作が成立した。以上の事態からして、近衛内閣を実現することは、愈々愁眉の急務となってきた。しかし、秋山、麻生、亀井が近衛公擁立に動いたのは、単なる近衛内閣を実現するにあったのではない。秋山先生が直接近衛公を説き麻生久君と小生が之また直接近衛公に説き、公の了承を得たのは次のことである。即ち、中大兄皇子を助けて大化の改新を成就したのは、近衛公の祖先藤原鎌足である。近衛公は、この際前述の方針に従って改憲の大業を断行すべしというにある。


秋山、亀井、秋田らは、伊藤隆『近衛新体制』(中公新書、昭和58年11月)にも名前の出てくる人物であった。もう一度、勉強し直さねばいかんね。