神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

埴谷雄高の農民闘争社時代

『農民闘争』とマルクス書房については、「マルクス書房の終焉」で記事にしたのだが、同誌は『日本近代文学大事典』に立項されていた。それによると、

農民闘争 農民運動誌。昭和五・三〜七・五。全二一冊。農民闘争社発行、マルクス書房発行。(略)全農(全国農民組合)左派の機関誌で、渋谷定輔、布施辰治らを発起人とし、「年貢の全廃」以下の闘争方針を掲げて発刊されたもの。(略)プロレタリア科学研究所の農民問題研究会に属していた埴谷雄高も、日本共産党農民部長の伊東三郎から平田良衛を介して、昭和五年夏フラク責任者として送りこまれ、中尾敏の筆名で『農民委員会の組織について』(昭和六・六)を投じている。

埴谷が関係していたと知り、『埴谷雄高全集』別巻の「年譜」(白川正芳編)を見ると、

昭和5年春 神田今川町のプロレタリア科学研究所に入所し、やがて平田良衛が主宰する農業問題研究会の研究員になった。

    夏 埴谷は請われて農民闘争社に移った。調査部に属し、コミンテルンから届くドイツ語で書かれた文書を訳出。また月刊誌『農民闘争』の編集、発行に従事した。
     農民闘争社は昭和5年3月に創立され、昭和7年5月まで続いた。創立した当時は神田三崎町あたりに事務所があった。宮内勇によるとその実体はいわゆる「半非合法」であったという。『農民闘争』は昭和5年3月24日に「三月創刊号」が発刊になっている。編輯発行人は渋谷定輔、発行所は農民闘争社、発売所はマルクス書房である。
     『農民闘争』における埴谷の仕事は、最初は、地方の県連本部や支部から送ってくる小作争議などの通信を、雑司ヶ谷の布施辰治弁護士事務所から受けとってきて、それらを煽動的な文章にする原稿書きだった。
     その後、青砥にあった全農東京府連の事務所へ出かけ、左派の人物と会談し、原稿を書き、割付けをし、雑誌を発送し、といったふうに雑誌発行全般の業務に携わった。

  6年5月 「農民委員会の組織について」を『農民闘争』昭和6年5・6合併号に中尾敏の投稿というかたちで発表。

   春 共産党に入党、地下生活に入った。
     『農民闘争』内の共産党農民部に直属する伊達信、松本三益、松本傑、埴谷の四人が形成するフラクションの責任者であった。

  7年3月24日 伊達信宅にて逮捕された。埴谷の逮捕は伊東三郎、小崎正潔、伊達信に引きつづくものであったが、『農民闘争』は残った守屋典郎、松本三益、永原幸男などの手により終刊号が出された。

埴谷は、『農民闘争』の編集兼発行人について「「農民闘争」時代の隅山四朗」に書いている。

渋谷定輔 創刊号(昭和5年3月)〜6号(5年8月)
稲岡進 7号(5年10月)〜11号(6年5月)
大道寺浩一 12号(6年6月)
隅山四朗 13号(6年7月)〜21号終刊号(7年5月)

埴谷のおかげで、『農民闘争』について、詳しいことがわかる。『短歌前衛』、『プロレタリア短歌』の発行者となった林田茂雄は、『農民闘争』の発行者にはなっていなかった。
なお、柳瀬正夢は『農民闘争』の装幀も担当していて、『柳瀬正夢生誕100周年記念 柳瀬正夢資料集成』によると、少なくとも12号(昭和6年6月)、13号(同年7月)、15号(同年10月)が確認できる。