神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

日本文学報国会事務局長久米正雄が起こした現人神事件

日本文学報国会常務理事兼事務局長の久米正雄は、昭和17年9月新京で開かれた満洲建国十周年記念式典に報国会代表として出席したが、大阪毎日新聞に式典の様子を書いた中で、満洲国皇帝を「現人神」と呼んだ。これが後に問題となった。従来の年譜や『近代文学研究叢書』では、18年10月情報局と意見が相違し、文学報国会の事務局長を辞任すと書かれ、私もそれを前提として4月17日に書いた。しかし、小谷野敦久米正雄伝』によって、19年3月に事務局長を任期満了で退任した(常務理事は継続)ことを知り、驚いた。もっとも、このことは、小谷野氏が挙げている平野謙「アラヒトガミ事件」『群像』昭和28年11月号や櫻本富雄『日本文学報国会 大東亜戦争下の文学者たち』に書かれており、特に後者は私も何度か紐解いていたのだが、失念していたのであった。

小谷野氏の本を読んでも、この事件の経緯については若干疑問が残っているので、記録しておこう。
・久米の事務局長退任については、小谷野氏も言うように、新聞(たとえば昭和19年3月23日付東京朝日新聞)に、報国会が22日理事会を開き、19年度から事務局長は常務理事中村武羅夫が就任する旨書かれている。報国会の定款には、事務局長の任期の定めはないが、常務理事の一人が兼務することとされ、理事の任期は二年なので、事務局長の任期は二年ということになる。そうすると、報国会の設立された17年5月から19年5月までが任期ということになり、厳密に言うと、同年3月末の退任は任期満了ではない。しかし、昭和17年度・18年度の二年度を任期と見れば、「任期満了」という表現は許容範囲内とも言える。
・小谷野氏は、平野の文章が戦後この事件を明らかにしたという。しかし、今日出海『山中放浪』(日比谷出版社、昭和24年11月)に、次のように書かれている。

私が勤めていた文学報国会では、情報局の役人に文士たちは頭が上がらなかった。定見のない一属官に事務局長の久米正雄河上徹太郎はまだ自由主義の殻が脱け切れないと叱られ、罷免された。

今は、報国会では事業部企画課長、事業部長(昭和18年10月〜)、実践部長(19年4月〜)を歴任しており、久米が罷免されたわけではないことを知っていたはずだが、不思議な記述である。なお、河上の罷免も確認していないが、『河上徹太郎全集』第八巻の「年譜」によると、

昭和17年5月 情報局指導下に文学報国会が発足し、評論部門幹事長に推され、やがて審査部長となる
“同僚の久米正雄今日出海と特に心を併せ、当局の文藝統制を出来るだけ避けるべく努力せしも、事志と必ずしも合はず、二年にして解職。”(自作年譜)

という。

久米正雄伝―微苦笑の人

久米正雄伝―微苦笑の人