神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

国際人藤澤親雄がトンデモに至る道

小田光雄「古本夜話113」は、「藤沢親雄、横山茂雄『聖別された肉体』、チャーチワード『南洋諸島の古代文化』 」。小田氏が言及している大塚英志偽史としての民俗学柳田國男と異端の思想』について一言。大塚氏は、『柳田國男伝』から「大正十年(一九二一)九月十三日には、連盟事務局内の情報部に駐在していた日本エスペラント学会宣伝部員藤沢親雄」と引用して、藤沢について、「国際連盟に関する情報宣伝活動を担当する情報部に日本エスペラント学会の「宣伝部員」として駐在していた」とか、「エスペラント学会の関係者として連盟の「情報部に駐在」していた」と書いている。しかし、これは誤読ではなかろうか。『柳田國男伝』の典拠は、同学会の機関誌であるため、藤澤に「宣伝部員」という肩書きを付しているが、同学会から藤澤を国際連盟に派遣していたわけではなく、派遣していたのは当然日本政府だろう。藤澤自身が『迷宮』でも復刻された座談会「偽史を攘ふ−−太古文献論争−−」(『公論』昭和18年9月号)で、

藤澤 (略)官吏は向かないから、満鉄の経済調査局に入つた。大川周明、佐野学が一緒だつた。上村君の兄貴*1も僕のあとに入つて来た。当時あそこの主事をしてをつた松岡均平*2といふ人が政府代表となつて国際会議に行つた。私はあの時に松岡さんの秘書になつて行つた。それからアメリカに行き、アメリカで数箇年植民政策をやつて、それから満鉄の本社に勤めた。それからパリーに行つたが、当時国際聯盟が出来て、国際聯盟のはうで日本人の部員が欲しいといふのだ。その当時パリーにゐたのが谷と澤田*3だ。あの二人が僕をシヤンゼリゼーでえらい御馳走をしてシヤンパンを飲まして呉れて、実はかういふわけで、君に行つて貰ひたいといふのだ。僕は御馳走になつて、仕方がないからジユネーブに行つて三年ゐた。

と述べている。
それと大塚氏は、『創造的日本学 藤沢親雄遺稿』から藤澤の年譜を転記しているが、この年譜には誤りが多いので、『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』などから戦前を中心に藤澤の略年譜を作り、いくつかの私のエントリーをリンクしておこう。

藤澤親雄 ふじさわちかお
明治26年9月18日生。帝国大学教授藤澤利喜太郎の長男。弟の威雄は企画院第七部長。
明治44年 開成中学卒後、第一高等学校入学、同級に山田珠樹
大正2年 弁論部委員となる→「藤澤親雄も悩んで大きくなった。」(2008年9月21日
  3年7月 第一高等学校(仏語法科志望)卒
      有島武郎の草の葉会に参加→「藤澤親雄と共に「草の葉会」会員だった市河彦太郎」(2007年8月9日)、「藤澤親雄有島武郎」(2007年4月12日
  6年5月頃 エスペラントを始める→「エスペランチスト藤澤親雄とその時代(その2)」(2006年3月28日
  同年7月 東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)卒
  同年10月 文官高等試験合格
  7年2月 農商務省工場監督官補
  8年9月 特許局審理官
  同月 辞職
  同月以降か 満鉄東亜経済調査局員→「藤澤親雄についての補遺」(2006年2月20日)、「大川周明トンデモ本の世界(その4)」(2006年3月4日
  同年10月15日 老壮会エスペラントの由来、組織、使命について講演→「老壮会藤澤親雄」(2009年7月24日
    9年1月 協調会副参事
  同年4月 辞職
    同月21日 姉崎正治の媒酌で小林みつ子(株式仲買業小林市太郎の娘24歳)と婚約していたが、ゼノア出張の命令に接し、自宅で結婚式を挙行(同日付読売新聞。肩書きは農商務省工場監督官になっている)
    同月25日 イタリアのゼノアで開催の国際海員労働会議に政府嘱託として出席のため出国。松岡均平は政府代表委員副使、岡崎憲は労働者代表委員、岡上守道(筆名・黒田礼二)も政府嘱託(同月18日付東京朝日新聞)→「きだみのる『人生逃亡者の記録』(中公新書)は面白し」(2009年6月19日
  同年10月1日 日本エスペラント学会宣伝部委員に選任(初芝武美『日本エスペラント運動史』)
    同月 国際連盟事務局員
  10年1月 外務事務官
  12年4月 辞職
  13年2月 帰朝
  同年5月11日 神田宝亭で帰朝歓迎会→「『秋田雨雀日記』の凄さ」(2007年1月2日
  13年11月6日 九州帝国大学法文学部教授(同月7日付官報)
昭和4年9月 『共産主義排撃の根拠 国際主義と「日本」の新しき解釈』(タイムス出版社)刊行
  5年8月 辞職→「佐々淳行の親の仇?藤澤親雄」(2009年1月21日
  6年 この頃東光書院院長(『第九版人事興信録』昭和6年6月)
  7年8月 国民精神文化研究所政治学研究嘱託→「国民精神文化研究所の所長以上に恐れられた藤澤親雄」(2007年4月3日
  8年9月 海軍省嘱託
  同年 大東文化学院教授(『大東文化大学五十年史』)→「翻訳家列伝13(その6)」(2009年12月29日
  9年2月11日 日本文化協会(理事長・粟屋謙文部次官)が創設され、常務理事となる(荻野富士夫『戦前文部省の治安機能』)
  10年3月12日 日本文化連盟(代表・松本学)主催の孫文慰霊祭で講演→「水野梅暁本を狙う(その2)」(2006年9月29日
  10年4月 松本学らと邦人社を設立し、『邦人』を創刊(『松本学日記』)
  11年2月26日 二・二六事件のため松本学らが藤澤宅に避難する→「二・二六事件藤澤親雄」(2009年6月26日
  同年12月 松本徳明、黒田らと日独同志会を設立→「 岩村正史『戦前日本人の対ドイツ意識』(慶應義塾出版会、平成17年3月)にぶんなぐられる。」(2006年3月14日)、「思想戦士ガンダム」(2008年10月4日
  12年2月 内閣情報部嘱託→「情報官鈴木庫三クラブシュメールの謎(その16)」の注1(2006年5月16日
  同年4月 英国ジョージ6世戴冠式の観艦式派遣の軍艦足柄に中村研一、徳川夢声らと乗船し、横須賀を出港(7月帰国)→「大川周明トンデモ本の世界(その5)」(2006年3月6日
同年12月 エスペラント報国同盟を結成(『日本エスペラント運動史』)
  13年4月 日本大学に皇道講座が開講され、今泉定助らと共に講師となる(同月15日付東京朝日新聞) 
  同年5月2日 日本国家学会を創立→「藤澤親雄の大陸進出」(2007年3月29日
  15年 この頃から建国大学講師→「建国大学講師としての藤澤親雄」(2007年3月11日
  16年4月 大政翼賛会東亜局庶務部長
  同年7月 大日本興亜同盟が結成され常務理事となる→「国家主義者赤神良譲と藤澤親雄(その3)」(2007年3月29日
  同年10月 大政翼賛会中央訓練所調査部長
  この頃 東洋大学教授(『大衆人事録』)
  17年3月 『世紀の預言』(偕成社)刊行
  同年6月 皇道世界政治研究所の設立者の一人となる→「皇道世界政治研究所と藤澤親雄」(2007年4月13日
  同年7月 大日本興亜同盟思想局宣伝部長(同月5日付朝日新聞)→「情報官鈴木庫三クラブシュメールの謎(その16)」(2006年5月16日
  18年2月 『神国日本の使命』(巌松堂)刊行
  戦後「翼賛*4中央本部興亜局*5庶務部長、東亜局庶務部長、著書」を理由として公職追放
  26年8月 公職追放解除
  のち東洋大学教授、日本大学教授(30年度〜)
  37年7月23日 没*6

*1:第一公論社長の上村哲彌。大正8年7月満鉄に入社し、東亜経済調査局勤務となっている。弟の上村勝彌は『公論』主幹。

*2:東京帝国大学法科大学教授兼満鉄東亜経済調査局長。大正8年12月〜9年4月まで協調会常務理事を務めるなど、藤澤と接点が多い。

*3:フランス大使館三等書記官の谷正之と澤田廉三か。

*4:「翼賛」は、大政翼賛会の略。

*5:東亜局が興亜局に改称されたのは、昭和17年3月。

*6:死亡時の肩書きは、同月24日付毎日新聞夕刊が「政治学者、日大教授、青山学院大講師」、同月25日付読売新聞朝刊が「日本パナマ協会副会長、前日大教授、政治学者」。