神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

平凡社創設者下中彌三郎の謎(その2)


下中彌三郎事典』(下中彌三郎伝刊行会。昭和40年6月発行)から読み解く。


4 下中彌三郎三浦関造


 同じく、神田が執筆を担当した「心霊研究」の項を見てみよう。
 

下中は<興味過多症>を自称していただけに、怪奇の世界にも非常な関心を寄せて誘われれば心霊研究や交霊会には喜んで顔を出していた。(中略)が、そんなところから、下中の身辺には、霊媒的人物がいつもつきまとっていた。あまりに神憑り的なので、世間からはとかく疎んぜられ勝ちだった三浦関造を扶けたり、仁宮武夫や小田秀人の来訪をよろこんでいたのも、その現われであろう。


三浦関造について、『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』(三村三郎著。昭和28年8月発行)中「親猶主義関係の人々」から引用してみよう。


三浦関造  霊智学(フエロソフイ)の権威として知られ、戦前数回渡米したが、本年は印度にゆくと言っている。著書多数あり、日猶懇話会副会長として、犬塚[惟重]会長と共に若いユダヤ研究者の育成に務めている。

 同書によれば、「日猶懇話会」というのは、昭和25年に、藤沢親雄三浦一郎、角田清彦が発起して設立した団体。ふ、ふ、ふ、とうとう藤沢や、三浦(三村三郎は三浦の筆名)まで登場してきたぞ。
 おっと、出し惜しみしては、いかん。同書の「親猶主義関係の人々」には、下中の名前もあるのだ。


下中弥三郎  平凡社社長、元中央翼賛会議長、埼玉県小学校教員から左翼的農民運動に入り、転じて右翼系の人となり、橋本欣五郎氏初め沢山の右翼人のシンパだった。(中略)最近神奈川県元大倉精神文化研究所跡にアジヤ大学を設立すべく奔走中、氏は早くから八紘為宇、一視同仁の国体原理に基く親猶主義者で、現在「日猶懇話会」名誉会長である。(中略)ユダヤ問題及びユダヤ情報については想像以上に詳しい。


5 下中彌三郎と田中清一


 田中清一という名前に記憶があるだろうか。2月2日に言及した人物で戦前は、竹内文献の信奉者の団体を支援した人物である。戦後は、国会議員になる(昭和34年参議院全国区当選、一期で辞任)のだが、この人物もおもしろそうな人物である。三村三郎は、『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』の「戦前における親ユダヤ陣営の人々」で、「民間で有力な日猶親善運動者」として、皇漢医学の中山忠直、日本神智学者の三浦関造などと共に、富士製作所々長田中清一を挙げている。


 また、『神代秘史資料集成解題』(大内義郷著)では、竹内文献の信奉者として知られる弁護士田多井四郎治の紹介として、「昭和13年頃、当時唯一の特殊軍需要[ママ]器材制[ママ]作所として知られていた静岡県沼津市の富士制[ママ]作所社長田中清一を資金のバックとして小寺小次郎が興した神代文化研究所で理事・所長の要職を占め、同じ頃所員となった安藤[一馬]と並んで上津文研究家として活躍し、同17年には大湯のストーン・サークルの発掘を手懸けたが、昭和18年頃、研究所の役員から身を引いている」としている。


 この田中が、『事典』の「綜合国土計画高速自動車道」の項目に出てくるのだ。

富士製作所長田中清一によって企画提唱された高速自動車道建設案にもとづく、全日本縦貫道路である。(中略)
下中はこの提唱者である田中清一の、全然私利私欲を放れた雄大な国家的企画にすごく感動共鳴していて、この企画の本拠である財団法人田中研究所が発足した昭和30年7月以来その理事に就任し、田中を極力扶けてきた。


 ところで、三村の書には、「田中清一氏の「国土計画」に関するパンフレツトを中山[忠直]氏が発行した時にもこの論(引用者注:伊勢の外宮を長野県安曇平に移して長野神宮とするなどの中山の私案)をさしはさんでいた。」と書いてある。この中山は、ヨコジュンがほれ込んでいる人物で、『日本SFこてん古典』第1巻で登場しているし、雑誌で略伝を連載した(筆者未見)とのこと。ヨコジュンの『雑本展覧会』では「明治28年生まれの詩人で、漢方医学研究家で、芸術評論家、タコ部屋撲滅運動家、埋もれた画家の紹介者、国家社会主義活動家として活躍したマルチ人間」としている。この項の冒頭に書いたように三村によれば、日猶親善運動者でもある。色んな人間が登場してきて、ワクワクするなあ。


6 おわりに 


 下中は、『すめらみこと信仰 萬教帰一の最高具体標識』(昭和12年2月発行)で、次のように述べている。

 この既成宗教の腐敗堕落をしり目にかけていともあやしげな新宗教とやらが時を得顔にはびこつてをる。天理教とやら、金光教とやら、大本教は言はずもがな、人の道だの、成長の家だの、次から次へと人間の弱点をつけねらふ邪教みたいなものが横行する。現世利益の妖教めいたものが濶歩する。


 今まで見てきたように、下中の竹内文献の信奉者たちとの関係から考えると、このせりふが本音か、とぼけているのか判断するのは難問である。もっとも、昭和12年の時点で、下中が信奉者たちとどのような関係にあったかは依然として不明であるが・・・


 さて、右翼系人物との印象を持ってしまう下中であるが、まだ三村の言う「左翼的農民運動」家であったと思われる大正14年、石川三四郎らと創立した農民自治会の、第1回全国委員会が昭和2年3月に開催された。その時、下中、石川ら14名の全国連合委員(東京)の中に不思議な名前が見られる。すなわち、大槻憲二という名前が。


注:大槻憲二については、2月14日及び20日を参照。


追記:大槻憲二について、『日本近代文学大事典』から抜粋

 大槻憲二 明治24.11〜昭和52.2
 文芸評論家、心理学者。大正7年早大文学部卒。
 大正末期から、農民文学論者の立場に立って「文芸日本」「新潮」「文芸市場」「都新聞」などにマルキシズム文学論批判の評論を発表。大熊信行、平林初之輔らと論争した。のち、精神分析学の立場に移った。


 森さんの言うとおり、大槻の名前が出てきても不思議ではなかった。