神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

国際政経学会常務理事増田正雄の敗戦前後

戦時下のユダヤ研究会と丸山敏雄の日記」で紹介したユダヤ研究会と丸山の関係は、昭和19年から始まっている。『丸山敏雄全集』17巻(倫理研究所、昭和54年5月)に次のようにある。

(昭和十九年)
五月六日(土)猶太研究会
(略)
午後一時より読売五階講堂にて山崎、四王天、増田三氏のユダヤ問題研究発表あり。大変よい。はじめてこんなしんけんな会に出た。思想問題のもと也。日比谷公園にて夕食。(略)

四王天」は国際政経学会会長の四王天延孝。「山崎」は昭和18年11月に同学会から『ユダヤ問題を中心とせる思想国防』を刊行した山崎能達だろうか。
同学会常務理事の増田正雄は戦後公職追放。戦後の増田については、三村三郎『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』(日猶関係研究会、昭和28年8月)に、

(略)増田氏はとうとう追放になつた。このために今では、大阪宝塚附近の自宅も売り、東京麻布東町の宅は戦災を免れたがこれもどうやら人手に渡つたらしく、あの沢山の貴重なユダヤ文献も一部を国会図書館に寄贈したほか、大半は追放中の生活費に売却したと語つていた。

とあることしか判明していなかった。ところが、丸山の日記によると、

(昭和二十一年)
四月二十七日(土)晴
(略)竹秋と共に麻布東町の増田正雄先生を訪問して、神話より研究。結果より時間の問題をきく。十二時、引上ぐ。はじめて先生の家をとひし也(タケノコ二本)。『日韓正宗溯源』、『記紀研究』をかへす。帰りて、『東大古族言語史鑑』をよみ(略)
四月二十九日(月)晴
(略)
午前中、竹内文書*1研究。(略)
十一月三日(日)快
(略)
◯十時半、角筈より牛込北町田中氏に至る。久しぶりなり。西村氏、増田先生、迫水氏、船田氏の外交政治又道楽のおはなしきゝ、いもくひ、五時に至り日くるゝ頃、辞す。青山、うすきと共にかへる。よき一日なりき。

編者の注によると、「迫水」は迫水久常で山本英輔会長の八光会によく参加していたという。また、「船田」は船田中、「青山」は丸山の弟子青山一真、「うすき」はひとのみち教団時代よりの丸山の知人宇宿五郎。11月3日は日本国憲法が公布された日だが、増田らが集まった会がどういう性格のものか不明なものの、とても興味深い記述だ。日記中に増田の名前が現れるのは翌22年6月2日が最後である。
また、『丸山敏雄全集』別巻3の写真集を見て驚いた。「第一冊/ユダヤ研究/20年」と書かれたノートの写真と「ユダヤ研究会で使用したノート」というキャプションである。丸山が昭和20年開催のユダヤ研究会に出席した際の記録である。そんなものが残っているのか。
なお、増田正雄でググる徳富蘇峰記念館が増田の蘇峰宛書簡を所蔵しているようだ。また、聞くところによると、国際政経学会について研究している人もいるらしいので、今後増田の没年も含めて新しい発見があるかもしれない。

*1:日記の昭和19年12月15日の条に「午後、丸ノ内に原氏[原耕三]を訪。竹内、[ママ]文書のことについて語る」と出ている。