神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

平凡社創設者下中彌三郎の謎(その1)


   下中彌三郎事典』(下中彌三郎伝刊行会。昭和40年6月発行)から読み解く。


1 下中彌三郎と旅順図書館


 「旅順図書館」の項目から引用。


 大正七年(一九一八年)八月日本女子美術時代の教え子野波八重子が旅順から下中を訪ねてきた。下中はこの年の三月埼玉師範を辞任し、もっぱら出版を初めようと志していたところであったが、野波のいうところによると、夫の野波静雄が満鉄から図書館の経営をたのまれたが、自分は適任でないから誰かほかの人に頼みたいというのでお願にきた。ぜひ引きうけてくれというので、元来書物好きの下中は快くこれを受託渡満した。(中略)
 さて図書館は露清銀行の2階にあった。下中はそこで図書分類法を研究し、新な配列を実施すると同時に、オープンドアシステムを実行した。この開放的なやり方は満鉄に歓迎され、沿線に普及した。ついで下中は大谷光瑞の蔵書保管も一任されたので、その整理保存にあたった。


注:野波八重子は杉浦重剛の姪


 大谷光瑞の蔵書といえば、岡村敬二『遺された蔵書』で「大正4年に神戸を離れて上海の横浜正金銀行の倉庫に入れられた時には本箱で250もあったといわれている。参考図書館として立ちゆく大正7年の直前に大連図書館へ依託され、大正14年11月に寄贈されることになり、大連図書館の蔵書となったのである。」とある。これと、下中が管理した分とは別と思われるが、よくわからない。


 さて、図書館ネタで誰ぞをぬか喜びさせてしまったかもしれない。
 下中について、旅順図書館に在職していたことはそれほど興味深くはない。期間も大正7年8月から大正8年4月までの短期間だしね。


 それよりも、秦郁彦昭和史の謎を追う』下巻「第29章 天津教盛衰記−日本神国論の系譜」を見ると驚くことになる。
 天津教(竹内文献を擁する教団)の最盛期の信奉者たちとして、下中弥三郎平凡社社長)の名前が挙げられている。注として、「天津教側であげたもの。実際には参観者の域にとどまった人が多いと思われる」と、秦氏は書いているが、それにしてもおなじみの軍人、華族、弁護士等(頭山満も出てくる)の中では、異質な存在である。
 もっとも、2代目教祖竹内義宮の『デハ話ソウ』(昭和46年11月発行)の、「主なる神宮拝観者と参拝者」中「終戦後の方々」として、下中の名前は登場している(ちなみに頭山は昭和10年中の拝観者)。


 さて、僕は天津教が最盛期であった戦前における、竹内文献の関係書籍に、下中の名前を見たことはない。
 しかし、『下中彌三郎事典』を見ていると、うっすらと下中と戦前における竹内文献の信奉者たちとのつながりが浮かんでくるのである。


2 下中彌三郎酒井勝軍


まずは、「カイゼルの遺言」の項目を見てみよう。


 雑誌『平凡』の昭和4年(1929年)3月号に「世界転覆の陰謀−真?妄?所謂猶太禍!」という座談会が掲載されている。出席者は信夫淳平、酒井勝軍、大竹博吉、満川亀太郎、樋口艶之助、大石隆基の6名に、社側から下中と志垣寛という顔ぶれ。(中略)出席者のうち、樋口、大石はユダヤ禍の鼓吹者であり、そのほかはすべて反対論者であった。両者それぞれ見解をのべて白熱の論戦を展開するが、結論は下中の「もう少し日本人の思想を堅固にして根拠のないユダヤ禍説の如きにビクビクしないようにしたいものだ」という点に落ち着いた。論争の途上、1897年(明治30年)にスイスで開かれたユダヤ人会議で決めた、世界転覆の筋書とされる議定書(プロトコール)が、実は偽書であるという点に関連して下中はつぎのように発言した。(以下略。匿名で下中が『カイゼルの遺言』という書物を書いたことがあるという話)


 いきなり、「キタ━━━━ヽ(^∀^ )ノ━━━━!!!! 」
 竹内文献の信奉者としては、トップクラスの酒井勝軍の登場だ。しかも、下中自らも参加している。戦時下の偽書論争(2月3日参照)もすごいが、ユダヤ禍論争ってのもたまらん。


3 下中彌三郎と肝川竜神


 次に「耕大陣之大神」の項目を見よう。


 下中が、彼のみたま神(身魂神)とされる耕大陣之大神(たがやしだいじんのおおかみ)を祀る<大国宮>に詣での[ママ]は、昭和30年(1955年)3月18日で大国宮なるものを下中に紹介した三枝忠二が案内し、久邇朝融が同行した。大国宮の所在地は、兵庫県川辺郡猪名川町字肝川で<肝川竜神>ともよばれている。大正3年(1914年)秋、全戸数わずか30戸のこの部落に、突如<神憑り>となって叫び回り、人々をおどろかした婦人が現れた。車末吉の妻小房(31歳)である。
(中略)この啓示が大変な評判となって、貴族院議員赤池濃、旧米沢藩主子爵上杉憲章、のちにこの啓示を基礎に神政竜神会を組織した海軍大佐矢野佑太郎をはじめ、多くの人が集まった。なかでも、大本教の出口仁王[ママ]三郎らは機会あるごとに肝川を訪ね、教祖出口直の没後はもっぱら車小房の啓示によって大本教の基盤を固めていった。
(中略)下中は、以後数回肝川を訪ね、(中略)。
 昭和39年10月5日の大国宮秋季大祭にあたり、下中は先覚者の一人として大国宮に合祀された。


注:下中は昭和36年2月死去


 ぬぬぬ、次は神政龍神会やら大本教の登場か!「解剖」は、中村古峡先生の独壇場だが、先生はとっくにお亡くなりになっているから、我輩が代わりに少し「解剖」しよう。
 赤池、上杉、矢野はいずれも秦氏の著書で「最盛期の信奉者たち」とされる人物。『デハ話ソウ』によれば、上杉、矢野の拝観年は、それぞれ、昭和7年、5年(ちなみに、赤池は2月14日に「日本国語会」で言及した元警視総監である)。
 更には、久邇朝融とは、『デハ話ソウ』中、下中と同じく、拝観者リストに「終戦後の方々」として登場する久邇宮朝融主殿下であろう。竹内文献の関係者がぞろぞろ出てくるなあ。


 まてよ、この項目の執筆を担当した神田孝一の執筆者紹介を見てみよう。
 神田孝一(福島)
 一(現職) 心の科学会会長
 二(下中との関係) 昭和28年世界銀行券問題、昭和29年大国宮、昭和31年富士山ピラミッド問題、同年世界遺産連盟問題等の問題について関係した。


とある。どっかで見たような名前だなあ。『デハ話ソウ』の参拝者名簿を再度見ると、頭山満と同じく、「昭和10年中」の拝観者の中に入っている。更には、「終戦後の方々」では、下中の名前の直後に、「神田孝一(心の科学会会長)」として登場しているぞ。


(参考)矢野祐太郎と、大本教、天津教、神政龍神会について
    『神政龍神会資料集成』中『皇祖皇大神宮御神宝の由来』の解説から

神宝奉賛会は、矢野祐太郎が昭和8年3月、竹内(引用者注:天津教初代教祖)を名誉総裁に仰ぎ、皇祖皇大神宮の「御神宝ノ存スル所ヲ満点下ニ徹底セシメ、以テ我ガ神州皇国ノ総テノ国難ヲ根本的ニ救ヒ、進ンデ世界平和ノ実現ニ貢献セン」ことを目的として設立したものである。会長には矢野自身が就任をし、本部は東京市四谷区南町の矢野の居宅に置かれた。(中略)矢野に、大出口直霊大神(引用者注:大本教初代教祖)から「棟梁皇大神宮の古文書、一日も早く調べる様いたせよ」という神命が下ったのは、昭和5年11月4日のことであるという。矢野はそれまで皇祖皇大神宮が存在することも、同神宮に古文書が存在することも知らなかったが、酒井勝軍を通じてその所在を確認し、同年11月14日、妻シンを同道して参拝を果たす。(中略)しかし、矢野は間もなく自らが設立した神宝奉賛会から脱会することになる。(中略)脱会後の矢野は、独自の組織造りへと方向を転じる。それが、昭和9年11月に結成された神政龍神会であった。