神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

演歌師添田唖蝉坊の正相正体健康法

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添田唖蝉坊・知道親子には多少興味があって、リブロポートの民間日本学者シリーズ、木村聖哉添田唖蝉坊・知道ーー演歌二代風狂伝』も買ってある。古書英二(練馬区)の500円から200円に値下げした値札が付いているので、西部古書会館の古本市で買ったか。余談だが、近年東京の古書会館では何度も値下げした跡が残る値札が目立つ。1回だけでなく、2回、3回と手書きで値下げした跡が残っている値札が目立つのである。買う方としては安いほどありがたいのだが、古書業界の将来が心配になったりする。
さて、『秋田雨雀日記』2巻(未来社、昭和40年11月)を見ていたら、唖蝉坊の健康法が出てきた。

(昭和六年)
三月二十八日
(略)添田唖蝉坊氏が訪ねてきた。健康法をはじめるのだそうだ。(略)

この時期の唖蝉坊の動向を『添田唖蝉坊・知道著作集』1巻(刀水書房、昭和57年8月)の「添田唖蝉坊添田平吉年譜」から見ると、

大正14年 桐生に山居、半仙生活、松葉食をする。天竜居を称し、人体諸相の研究にふける。
大正15年 伝統、科学両面の迷信打破のため各地に講演会をひらく。
昭和2年 人体研究、易の研究
昭和3年 東京に戻る。
昭和6年 正相正体を案じ、唱道する。   

同書には、大正14年4月18日桐生に山居し、「正相正体を念じ、米食を廃し、松葉を用ゐた」時の挨拶状が引用されている。

(略)
今回下記に居を卜し、半仙生活?に入ります。これは決して逃避ではありません。真の人間生活に衝き入らうとする、新しい強い信念の下に於てゞあります。
(略)
群馬県桐生市小曽根(竹次郎稲荷社境内)
天竜居 添 田 拝

また、同書には昭和6年の賀状に代えた挨拶文も出ている。

賀正 昭和六年一月元旦
本年は正相正体(身心保健の修養)の小冊子を出版し、広く世に頒布したいと思ひます。何分よろしく御賛助を御願ひします。
(略)米食を廃して七年、独特「人体研究」と「食物研究」を継続して居ります。精神爽快、身体頗る健、食べ物うまく、金なし。
正相正体修養道場 天竜居 添 田 唖 蝉 坊
東京市外長崎町西向二五六六

文中の「小冊子」を見れば、正相正体健康法の詳細がわかるかもしれない。単なる菜食主義ではなかろう。しかし、所蔵する図書館は皆無か。

京都帝国大学附属図書館の兵働竹酔

冨山房の『国民百科大辞典』14巻(昭和13年4月)の「寄稿家名鑑」には、数名の図書館学・書誌学関係者が見える。

庄司浅水 [製本・書籍]
田中敬 大阪商大図書館嘱託 [図書学]
長沢規矩也 法政大学講師 [書誌学(支那)]
弥吉光長 丸善株式会社 [図書館]

著名な人ばかりだが、実は無名の人が1人存在した。

兵働竹酔 京都帝大図書館員 [人名]

兵働が館界に残した足跡は皆無と思われるが、判明した経歴をまとめると、

明治?年 佐賀県
明治45年 早稲田大学哲学科卒。同期に島中雄作(『早稲田大学校友会会員名簿』大正14年)
大正2年 京都帝国大学文科大学文学科(選科)入学
大正8年 同英語学英文学専攻卒業(『京都大学文学部卒業生名簿』昭和30年)
昭和3年5月 京都帝国大学附属図書館に採用(『京都大学附属図書館六十年史』)
昭和15年7月 同退職(同上)

ざっさくプラスでは「天国の欄干にて」『新女界』大正3年12月、「熊野の海」『六合雑誌』大正5年8月など3件ヒット。更にグーグルブックスによると、『『新人』『新女界』の研究:二〇世紀初頭キリスト教ジャーナリズム』(同志社大学人文科学研究所、平成11年)に「兵藤(ママ)竹酔(佐賀県)」の入信に関する記載があるので、キリスト者だったらしい。『国民百科大辞典』では各界の学者・研究者が専門分野を担当する中で、兵働は図書館員らしさを発揮して、学際的な「人名」を担当。優秀な図書館員だったのだろう。もっとも、大辞典で実際に執筆した項目に当たる必要がある。

玄洋社関西支部長だった日本少女歌劇座の興行主島幹雄

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今日から大和郡山市で開催の「旅する少女歌劇団 日本少女歌劇座展」。奈良女の磯部敦先生のtwitterで開催されることは知ってはいたのだが、今日の京都新聞に詳しい記事が載っている。1921年大阪・日下温泉で誕生した日本少女歌劇座の運営を引き継いだ奈良・大和郡山の島興行社の島幹雄は、1896年奈良生まれで、興行の世界へ入る前は、玄洋社の関西支部長だったという。驚きますね。これは、見に行かねば。DMG MORI やまと郡山城ホール展示室で9月1日まで、27日は休館、無料。
展覧会開催に至るきっかけは、京都文教大鵜飼正樹教授が25年近く前に百万遍の古本市!で見つけた本社・大和郡山とある日本少女歌劇座の絵葉書。その後、大和郡山の図書館への寄贈品の中に絵葉書、ブロマイド、アルバム、チラシなど500点近くの資料が見つかり、1936年に拠点を移した宮崎では島の孫や元座員に出会い、その成果を今春宮崎で歌劇団の展覧会として実現させたという。
ところで、私は最近玄洋社の関西支部長という肩書きの趣味人をどこかで見たような気がする。誰だっただろう。

 [トンデモ][柳田國男]国際政経学会の増田正雄は昭和34年まで生存していた

高校の日本史で習った「西原借款」を覚えているだろうか。大正期中華民国に対する借款を担当した西原だが、その日記『西原亀三日記』(京都女子大学、昭和58年2月)が山本四郎編で刊行されている。巻末の「主要人名・事項索引」を先に見ると、面白そうな人物は内田良平ぐらいであった。一応本文を読んでいるが、索引では黙殺された増田正雄が出てきた。

(大正十一年十二月)
九日 (略)
神戸に増田正雄氏の来訪を受く
二十四日 清(ママ)養軒に増田正雄氏を訪ひ天小町にて昼餐の饗を受け近況を談し(略)
(大正十二年一月)
六日(土) 本日午后壱時より生の知人の為に催されたる顔世清氏の支那公使館に於ける書画展観に半日を楽めり。會するもの
 田中大将、勝田前蔵相、山根男、福原男、池田男、徳富蘇峰、原田金之助、清水釘吉、樺山資英、川村従(カ)蔵、永井平蔵、増田正雄、石井光雄、入沢達吉博士、高橋大華等の諸氏
二十二日 午前十時田中大将邸に水野子爵・福原男爵・増田正雄君と落合ひ、前日會合の情勢と将来の方策に関し凝談し昼餐を共にして祝杯を擧く
(大正十四年七月)
十八日 午后二時神戸着、増田正雄君、鮮銀藤巻君の出迎を受け(略)
午后七時より大阪商業會議所に於ける日露協會主催の講演に臨む。約弐時間半支那の将来に関し時局談をなす

( )内は編者による。「カ」は「西原の書体は特異のものであり、決定しかねるもの」

複数回登場していても「主要人名・事項索引」から省いてもいいが、同時に登場する重要な人名との関係で増田は索引に挙げておくべきであろう。この増田が実業家で柳田國男と交流があり、国際政経学会常務理事を務めた国家主義者の増田に同定できる確証はないが、おそらく同一人物だろう。
ところで、増田正雄でググったらヤフオクに『神日本』の中里義美宛増田正雄書簡が出ていた。昭和34年5月14日の消印で神奈川県高座郡寒川町の皆川病院内から投函されていた。増田は昭和34年の時点でまだ健在だったのだ。
(参考)「[国際政経学会常務理事増田正雄の正体 - 神保町系オタオタ日記」、「結城禮一郎と柳田國男 - 神保町系オタオタ日記」、「国際政経学会常務理事増田正雄の敗戦前後 - 神保町系オタオタ日記

三田村鳶魚と井上正鉄の禊教

朝倉治彦編『鳶魚江戸学:座談集』(中央公論社、平成10年12月)の「鳶魚と早稲田」に禊教が出てきた。

朝倉 戦後、戦争中からはじまって戦後まで、偏*1無為という人の研究をずっとやっている。菊池先生ご存じありませんか。
菊池(明) 私は知りません。禊教(ルビ:みそぎきょう)の関係の手控えはものすごくありますね。先生は和紙に毛筆で一枚一枚書いて、ある程度集まりますと、私がお使いで神田の製本屋池上幸二郎さんのところへ製本に持っていくんです。出来上って届けると、いやあ、君、出来た、出来たといってほんとうにうれしそうな顔でした。(略)それは演劇博物館に収まっています。晩年はそういう方面の研究に熱心で、亡くなる直前、教祖井上正鉄(ルビ:まさかね)の肖像画を持ってきてくれといわれまして、東京から山梨の下部まで運んだことがありますよ。

また、同書の「鳶魚の思想と学問」には、

朝倉 三田村さんは寛永寺の坊さんになりましたが、その宗派だけに満足できないで、禅宗などほかのいろいろな宗教の研究もはじめます。江戸文化の研究のまん中くらいから、半分は神道大成経の研究に没頭している感じです。日記では静坐調息もやっているんですよ。とおかみ講ですね。井上正鉄禊教です。教団があちこちにあって、自分もときどき出かけていってやっています。(略)

三田村鳶魚は江戸学だけの人ではなかった(*_*)

鳶魚江戸学 座談集

鳶魚江戸学 座談集

*1:ママ。正しくは、行人偏

阪神百貨店夏の古書ノ市で見つけた板祐生の『杏青帖』

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梅田の阪神百貨店で明日まで夏の古書ノ市が開催中。まだ行っていない方は是非どうぞ。場所柄白っぽい綺麗な本が多いが、2年前にやや古い冊子を拾った。板祐生『杏青帖』(昭和24年9月)、非売品、8頁。矢野書房出品で500円。祐生は孔版画家で、鳥取祐生出会いの館がある。是非行きたいと思っている記念館の一つである。
廣澤虔一郎編・著『美神に心奪われてーー南部町が生んだ孔版画家・板祐生』(今井出版、平成28年2月)という本がある。著者は京大法学部卒業後山陰合同銀行に勤務し、退職後執筆活動を行っている人である。同書によれば、

祐生の長年の念願は、孔版で蔵書票をつくることであった。一つの試みとしてやってみたい、という試みに興味を抱いた九州の元満亥之助の後援と、五十名の人々の賛同を得て、昭和二十四年に「板祐生孔版蔵書票の会」ができた。
蔵書票のデザインは申し込み者の希望をできるだけ尊重して制作し、題箋の「杏青帖*1」は祐生が添えるが、張り込み帖そのものは思い思いに作成して貰うという約束があった。
(略)祐生の思いは、鉄筆を捨て、すべて切抜き技法で作り上げた蔵書票五十人集に凝縮され、『杏青帖』として完成をみたのである。

私が拾った冊子と同題の蔵書票集があったのだ。どういうものかは、ネット上の「Web謄写印刷館」中の「板祐生の世界」の「祐生研究」の稲田セツ子「板祐生ーー人とコレクション」の「10切りぬき技法の頂点「蔵書票」と「絵暦」」に写真が出ているので見られたい。
本冊子と蔵書票集の関係だが、冊子中に

添付冊子はお見かけの通り縮少[ママ]しましたが、貼込帖は適宜お作り願ふこととして、その題箋の「杏青帖」を添へました。杏青帖とは私の孔版蔵書票の名□て、杏の青さでは食べようがないといふ意[。]勉強して朱黄に熟する日を念ずる積で杏朱帖になる日をお後援によって得たいものとおもひます。

とあるので、蔵書票集に添付して送ったようだ。冊子には50人の「祐生孔版蔵蔵書票の会会員芳名」が載っているので、一部を載せておこう。

3 大阪 梅谷紫翠
4 名古屋 松岡香一路
5 大阪 芦田止水
9 尼崎 米浪庄弌 
10 和泉 小谷方明
20 京都 辻井甲三郎
22 名古屋 鈴木登三
26 松本 石曽根民郎
35 奈良県 九十九黄人
39 京都 田中緑紅
50 福岡 元満亥之助

拙ブログに出てくる趣味人の多くが会員だったようだ。50人の中には祐生自身は含まれていない。頒布された50冊の蔵書票集『杏青帖』の多くは現在はコレクターに渡っているだろうが、どれぐらい残っているだろうか。
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*1:ルビ:きょうせいちょう

佐賀図書館長西村謙三の印が押された西周訳『性法説約』

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吉岡書店で見つけた西魯人(西周)訳『性法説約』については、「吉岡書店で西魯人訳『性法説約』を」で言及したところである。最初に本書を発見した金子一郎氏の本には「宮尾」印が押されていたらしいが、実は私のにも印が押されていた。
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読めなかったのだが、twitterに挙げたら蔵書印さんに「西村謙三」と御教示いただきました。ありがとうございました。Wikipediaに同名の人の経歴が出ている。文久元年生、東京帝国大学文学部哲学科卒、昭和12年没の教育者、郷土史家。ただし、卒業年が確認できないので要精査である。佐賀図書館長だったとあるが、『佐賀県立図書館六十年のあゆみ』(佐賀県立図書館、昭和48年11月)によれば、任期は大正9年10月1日から昭和4年3月31日までであった。
西村は館界ではあまり足跡は残しておらず、
東條文規『図書館の政治学』(青弓社、平成18年1月)によると、昭和2年10月27日の佐賀図書館施行図書館デーに県下公私立図書館長会を開き、佐賀図書館長西村名で知事宛に、県下各町村立図書館の設立か、私立ならば毎年一定の図書館奨励費を図書館に交付するよう、県より奨励することを求める建議書の提出を決議した
・「県へ移管されたる佐賀図書館の十五ヶ年」『図書館雑誌昭和4年8月の執筆
ぐらいだろうか。スペンサーの『倫理の基礎』を評論したジエー・チー・ビックスビー『道徳之危機』(日本ゆにてりあん弘道会明治26年6月)という翻訳書を出しており、なるほど性法(自然法のこと)に関心を持っているわけだ。