神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

結城禮一郎と柳田國男


柳田國男の「大正十一年日記」に増田正雄らしい人物が出てくることは、昨年4月11日にも言及したが、その後色々判明したので、再掲してみる。

大正11年1月10日 夕増田君とあふ約束
        (略)
        夜スキヤ町加賀屋、大阪の増田君招、市来結城静雄、石嘉六君同席


「市来」は8月10日に言及した市来乙彦と思われる。そして、静雄は柳田の弟、松岡静雄だろう。増田と松岡の組み合わせは昨年4月2日にも言及したところである。更に、久保田米斎の日記にも出てくる。

大正11年4月23日 (略)鞍智氏と共に玉川畔の米井氏別荘にゆく 南天荘先生及その門人等の晩桜を賞し早き牡丹を見んとしたるなり(略)先生の令弟松岡静雄氏も来られ又大阪の人増田正雄氏なる人も亦一行に加はれりたり


南天荘先生」は柳田の兄、井上通泰である。増田は、柳田・松岡兄弟のほか、井上とも面識があったということになる。


話を「大正十一年日記」に戻すが、「結城」は、同日記同年4月19日の条に「るす中結城禮一郎来」とある結城禮一郎だろうか。結城禮一郎は、山口昌男坪内祐三の読者なら記憶があるかもしれないが、結城無二三の息子である。柳田とか増田とはどういうつながりなのだろうか。


(参考)『明治新聞雑誌関係者略伝』によれば、結城禮一郎は、明治11年4月生、昭和14年10月17日没。父は維新後キリスト教者として知られた幕末新撰組隊員結城無二三。四度『国民新聞』に入り、日比谷焼打ち事件では、連日連夜、社に篭城して編集に当たった、『報知新聞』、『やまと新聞』を経て、『東京毎夕新聞』の主幹となった。明治44年4月8日『帝国新聞』(大阪)を創刊したが、一年にしてこれを他に譲って帰京した。大正5年には玄文社の顧問として『新家庭』、『新演藝』を創刊、また別に『新聞研究』を発行した。大正14年3月『中央新聞』副社長となり、同紙の復興に努力したが、昭和2年退社。昭和4年東京市会議員に当選。
なお、「結城無二三 - Wikipediaウィキペディア」によると、結城無二三新撰組隊員だったというのは、自称に過ぎなかったようだ。

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林哲夫氏が、河野仁昭『京都の大正文学』の書評を産経新聞に。→「http://sankei.jp.msn.com/culture/books/091213/bks0912131138012-n1.htm