神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

河井酔茗の『女性時代』創刊前後

河井酔茗が昭和5年11月に創刊した『女性時代』については、「昭和18年河井酔茗主催の文庫会に集まった誌友達 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。その『女性時代』の創刊前後の状況が、伊良子清白の日記*1に書かれていた。

(昭和五年)
八月十八日 月曜 (略)河井君より来状 文もくらしも行詰り故、投書雑誌「女性時代」を出さんかと思ふと 成功すればよいがと思ふ
九月九日 火曜 (略)河井君から「女性時代」のパンフレツト来る(略)
九月十七日 水曜 (略)河井君から廿七日頃に小島君を主賓にして文庫会を開きたい 出京してはどうかとのハガキ来る 行きたいが行かれそうにもない(略)
十月二十九日 水曜 (略)河井君から女性時代創刊号来る(略)
十一月二十二日 土曜 (略)酔茗君からハガキ来る 「女性時代」に寄稿してくれよとなり(略)
十一月二十八日 金曜(略)河井君からハガキ、女性時代第二号来る(略)
十二月十八日 木曜 (略)酔茗君からハガキ、女性時代は印刷部数の半分しか売れず、半分は返品となつてかへつてくると、心配なり(略)

「小島君」は小島烏水。河井と伊良子は明治28年に知り合って以来の親しい間柄であった。全集の「年譜」(平出隆)によれば、同年5月『少年園』『少年文庫』の投稿仲間だった河井に手紙を送り、堺市に訪問した。『少年文庫』が青年向けに『文庫』として改めて創刊されると引き続き有力な寄稿家となったという。河井が『女性時代』の創刊前から親しかった伊良子に相談していたことが、上記の日記でわかる。昭和5年9月9日の条のパンフレットは内容見本だろうか。内容見本は全集の場合が多いが、「杉浦非水表紙絵の『東京』創刊号(大正13年8月)内容見本 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したように雑誌の内容見本もある。昭和5年12月18日の条によると半分しか売れず苦戦した『女性時代』だが、結局昭和19年3月まで続いたのだから大したものである。

伊良子清白全集〈第2巻〉散文篇

伊良子清白全集〈第2巻〉散文篇

*1:『伊良子清白全集』2巻(岩波書店、平成15年6月)

書砦・梁山泊京都店の本で知った御所内の京都府立図書館の状況

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今年の下鴨納涼古本まつりも今日で終わった。初日は某書店の均一台に一番乗りしたがカラブリであった。まあ、そういうこともある。さて、古本まつり3日目に行った帰りに寺町の書砦・梁山泊京都店をのぞいてきた。ここは図書館のように広く、ずらりと書棚が並ぶ京都では最大の古書店(ブックオフは除く)である。そこで被伝記者の五十音順に並べた棚が私のお気に入りである。今回見つけた佐武安太郎・船田瑞穂・平井金三郎編『小川睦之輔君の手紙』(昭和28年8月)もそこにあった。133頁の非売品で発行所の記載はなく、印刷所は一燈園印刷部。「まえがき」によれば、小川と編者3人は明治35年三高に入学後明治42年に京大を出るまでずっと一所で親しかったという。三高同窓会の会員名簿(昭和3年10月)を古書店つのぶえで拾っているのでそれを見ると、4名共明治38年医科卒業生に挙がっている。小川は京都帝大教授、佐武は東北帝大教授、船田の肩書きはないが住所は神戸の三菱造船舎宅、平井は長崎医科大学教授となっている。本書は昭和26年に亡くなった小川を偲んで昭和16年から24年まで3名の編者宛に送られた書簡をまとめたものである。
昭和21年3月19日付け船田宛書簡について平井が書いた解説に京都府立図書館が出てきた。

小川君の趣味の一つは読書であつた。僕が同君を思い出してその最も古いものは、京都の古い図書館に於ける小川君の読書の姿である。その頃京都の図書館は富小路丸太町にある御所の入口を入つた所に、美術学校と測候所と博覧会場に囲まれた古い御殿風の建物であつた。丸太町にある、浅川と云う今もある表具屋の小窓で二銭の入場券を求めて前記の図書館に行くと、きたない藁草履が列べられている室に入つて書物を出して貰つて読むのである。多分三高時代であつたろう。夏の暑い日盛りにこゝへ行つて見ると、計らず暑いのに袴をはいて威儀を正して読書して居る小川君を見い出した。傍へ行つて小声で「何を読んでるのだ」と聞いたら、此れも小声で「是れだ」と云つて見せたのが鴎外の即興詩人であつた。(略)

この図書館は明治31年御所内に開設された京都府立図書館だね。その後明治42年に現在地の岡崎に移転して、今年が移転110年というのは「明治41年京都御苑内の京都府立図書館で法学を勉強する若者がいた - 神保町系オタオタ日記」や「明治34年1月京都府立図書館へ通う山本宣治 - 神保町系オタオタ日記」で話題にしたところである。小川が読んでいた鴎外の『即興詩人』上・下(春陽堂明治35年9月)は現在も同図書館が所蔵している。ところで、平井の解説中に図書館の入場券を表具屋で売っていたというのは驚いた。普通は館内で売っているだろう。現に岡崎に移転した後の府立図書館について、古書鎌田で買った『京都府立京都図書館案内』(昭和6年10月)の「入館手引」によれば、「御来館の際は閲覧人入口より入館せられ、先づ閲覧券発売所にて所要の券を求め、それを改札口に差出します」とある。入場券(閲覧券)の販売を民間委託するというのは、明治期の図書館でどの程度行われていたのだろうか。

セセッション式流行の大正初期に発行された村上辰午郎の『大正婦女社会』

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第1回古本バトルは多少好評だったようで、第2回古本バトルも開催された。第2回分は取材を受けて、京都新聞6月28日朝刊の「多面鏡」欄に掲載され、石原和先生持参の『一尊如来教々義』(一尊如来教団)や私が持参した『神代文化』(神代文化研究所)が紹介された。その後、同新聞7月14日朝刊の末延芳晴「私の京都新聞評」で前記「多面鏡」の記事が取り上げられ、「吉永進一氏の友人という古書収集家が「ごそごそとリュックから取り出した」、紙の色がやや変色した『神代文化』という雑誌」の内容や来歴にショックを受けた樺山記者の記事について、記者の内部に隠された特異な「資質」のようなものが見える良い記事と褒めていた。
さて、第1回古本バトルに持って行ったが紹介できなかった雑誌に『大正婦女社会』2巻5号(大正婦女社、大正3年5月)がある。神保町の魚山堂書店の200円の値札が貼ってあるので、東京古書会館の古本市で買ったのだろう。
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戦前のマイナーな婦人雑誌に興味がある上、目次にあるように村上辰午郎「催眠術講習」が載っていたので購入。村上はこんな婦人雑誌にまで催眠術の記事を連載していたのかと思ったら、奥付を見ると村上自身が編輯兼発行人であった。国会図書館サーチやCiNiiでヒットしない(←追記:CiNiiには出ていた)。ただ、『日本婦人問題資料集成』10巻(ドメス出版、昭和55年5月)の『近代日本婦人問題年表』に大正2年1月創刊と挙がっているので、どこかの図書館に存在するのだろうか。
村上辰午郎は霊界廓清同志会編『霊術と霊術家:破邪顕正』(二松堂書店、昭和3年6月)に東京心霊研究会長として高く評価されている上に、「真に傑出した霊術家」の一人として、

村上辰午郎君(東京心霊研究会) 今から二十四年前、明治三十八年頃から、医学博士遠山椿吉、文学博士福来友吉両氏と共に時々各地にて、催眠術に関する講演会を開催した。是れより催眠術の声価は益々世間に高くなり、遂に今日の隆昌に達した。

と書かれている。更に、同書最後に「玉は玉、石は石」を寄稿しているので、霊界廓清同志会の一員だったのだろう。経歴は、日本力行会編『現今日本名家列伝』(日本力行会出版部、明治36年10月)から要約すると、

明治3年10月 加賀国会沢(正しくは金沢)生
明治28年 第四中学校卒。帝国大学文科大学へ入学して倫理、教育2科を専修
明治32年 同大学卒
陸軍砲工学校嘱託教授を経て、外国語学校教授、農科大学講師、京華中学校講師等の職を務める。

これに加えれば、明治32年7月東京帝国大学文科大学哲学科卒で、同期に遠藤隆吉、加藤玄智、西晋一郎、波多野精一福来友吉。「ざっさくプラス」で167件ヒットし、最後に確認できるのは昭和17年から18年にかけて『弘道』に「神社に就いて」を執筆していることである。
『大正婦女社会』の記事はあまり面白くないが、広告がよかった。東京帝国大学講師の肩書の付いた村上の『最新式催眠術』(成美堂書店)再版の広告が載っていた。裏表紙は三越呉服店の広告で、大正初期に日本で流行したというセセッション式が婦人傘にまで及んだ例である。
追記:『弘道』604号(日本弘道会昭和17年9月)の「本会彙報」によると、村上は昭和17年8月没

△協賛会員村上辰午郎氏は予て病気の折八月十三日遂に逝去(略)谷会長及松平会長時代本会の中枢部にあつて活躍された功労者(略)

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3年後の令和4年が人文書院100周年

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8月10日(土)丸善の京都本店で、本のつくり手である著者や編集者と読者を直接つなぐイベント「honto店舗情報 - 丸善創業150周年記念 京都BOOKCON 読み手と作り手をつなげる本の祭典」があって、人文書院のブースもあるらしい。3年後の令和4年が創業100周年になるとのことで、復刊リクエスト投票を企画しているようだ。大正11(1922)年創業というのは、『日本出版百年史年表』が根拠らしく、そこでは大正11年11月1日創業となっている。
人文書院及びその前身とされる日本心霊学会の創立及び出版活動については、ネットで読める石原深予先生の「編集者清水正光と戦前期人文書院における日本文学関係出版ーー日本心霊学会から人文書院へーー」に詳しいが、日本心霊学会の創立は明治41年、創業者藤田藤交(本名久吉)の『心霊治療秘書』刊行は大正2年、機関紙『日本心霊』は大正4年2月創刊、人文書院名での刊行は昭和2年11月からだがそれ以降も日本心霊学会は存続していたなど、何時をもって創業とするか諸説色々あり得るようだ。しかし、社としては大正11年創業として色々イベントをやってくれる模様。令和4年には一柳廣孝先生か吉永さんの記念講演を開催してほしいが、更に欲を言えば発見されたほぼ揃いの『日本心霊』や太宰治の書簡を含む貴重な書簡群などの展覧会も実施してほしいものである。
なお、写真の『日本心霊』は私の所蔵である。

戦前の京都で発行された健康雑誌『かゞやき』と富田精・富田房子夫妻

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一時期健康法とか霊術関係の本を熱心に読んでいた。田中聡『健康法と癒しの社会史』(青弓社、平成8年9月)もその一冊である。同書26頁に昭和初期における健康雑誌の登場に関する記述がある。

昭和初期には、『健康時代』(昭和五年=一九三〇年創刊)や『健康日本』(昭和七年=一九三二年創刊)などといった健康雑誌が出版されている。それまでにも『家庭娯楽 衛生新報』(明治三十七年=一九〇四年創刊)などの衛生啓蒙の雑誌はあったが、「健康」という言葉を冠した一般向けの読み物雑誌は、(あくまで入手できた資料の限定のなかで言うことだが)この頃に初めて登場してきたように思われる。(略)

写真の『かゞやき』2巻5号(かゞやき発行所、昭和9年5月)も表紙に「心とからだの健康雑誌」と冠されている。54頁、どこかの古本市で吉岡書店から500円で購入。内容は真面目なもので、霊術とか怪しげな健康法が出てこないのでやや迷ったが、京都で発行されていることや、西田天香武田五一が執筆しているので購入。府立京都学・歴彩館が2巻1号(昭和9年1月)を所蔵。
編輯兼印刷人は日置昇平。発行人は京都市上京区出雲路河原町の新江ゆう、発行所のかゞやき発行所も同所在地である。
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目次は写真の通りで、武田の「我が住宅」は、現存しないが武田邸の各部屋についての詳細な説明である。何度も名前があがっている富田精は医師で、房子は妻である。この雑誌は、実質的には富田夫妻の病院が発行していた健康雑誌のようだ。富田の経歴は、『日本医籍録』(医事時論社、昭和11年7月11版)から要約すると、

富田精 出雲路河原町
内科 富田病院 明治17年
福井県出身。大正7年京大医学部卒。卒業後、新町に開業。傍ら京大内科で研究。昭和2年医学博士。14年現地に分院開設。13年私立産婆学校創設。白木山分院を目下建築中。

現在も社会福祉法人京都博愛会冨田病院として存在するようだ。妻の房子は、「冨田ふさ」としてWikipediaに立項されているが、明治26年生、東京女医学校卒の産婦人科医。昭和22年初の女性衆議院議員となり、29年没。
京都の医師で西田天香と交流があれば、小林参三郎や静坐社とも関係があるかもと思ったが、今のところ不明である。
参考:「京阪書房で小林参三郎『生命の神秘』を買ったら『京都新聞』に静坐社の記事が
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オカルトに好意的だった冨山房の『国民百科大辞典』

『国民百科大辞典』10巻(冨山房昭和11年7月)に心理学者で早稲田大学文学部講師だった戸川行男が「念写」の説明を書いている。

ねん-しゃ[念写][[英]thought photography] (略)霊媒ノ思想又ハソレヲ通ジテ他人ノ思想ヲ写シウルトノ主張者ガ現レ、思想写真又ハ念写ナル名称ガ用ヰラレルニ至ツタ。(略)コノ現象ノ真偽ハ未ダ明白デナイ。[戸川]

戸川は、『日本心理学者事典』(クレス出版、平成15年2月)によれば、明治36年生、昭和4年早稲田大学文学部哲学科心理学専攻卒業、8年早稲田大学文学部講師、15年同助教授、20年同教授、平成4年没。福来友吉が東大を追われた大正4年*1以降、学界では千里眼や念写については否定派ばかりだったかと思いきや、真偽不明という中立的立場とはいえ、福来に好意的に見えてしまう。一柳廣孝先生の名著『<こっくりさん>と<千里眼>ーー日本近代と心霊学ーー』(講談社、平成6年8月)によると、千里眼事件最中の明治44年5月福来は恩師の元良勇次郎に「君の今の研究は、心理学者に同情がない」と言われたというが、福来に同情的な心理学者はいたのかもしれない。
百科事典と言えば、平凡社の『大百科事典』だが、第20巻(昭和8年7月)の「念写」を見ると、

ネンシャ 念写 Thought-photograph (略)初めてこれが可能を主唱したのは福来友吉であるが、実際にはまだ確実に証明されてゐない。(略)その後福来は、長尾郁子を指導して、次第に複雑なる文字や画像をさへ念写し得るやうに養成した。しかし、山川健次郎の立会実験の結果、長尾の念写は詭計(ルビ:トリック)であるといふことに断定せられてゐる。そののち福来は、更に高橋某女、三田光一等について、念写の可能を世に公表したが、いづれも実験がまだ不確実で、特に三田光一の念写は、東京の大日本衛生会館に於ける実験会で、その詭計であることが暴露された。(中村)

冨山房のものに比べると千里眼事件の経緯に詳しく、かつ、否定的な立場がうかがえる。平凡社の方は執筆者一覧が見つからなかったが、「中村」は物理学者で東京帝国大学名誉教授の中村清二だろう*2。念写については否定派だった。中村は冨山房の方の執筆者でもあったから、冨山房が戸川でなく彼に書かせていたら、まったく違った記述になっていただろう。
冨山房の執筆者は心霊現象などに好意的な人が多かったようだ。7巻(昭和10年9月)の「心霊写真」を見てみよう。

しんれい-しゃしん[心霊写真] 幽霊写真ノ一種。心霊現象ノ一デ、霊媒又ハ他ノ者ニ依テ、遠隔者ヤ死者ノ写真ヲ撮影スルモノ。(略)何レモ詐術問題ヲ惹起シタナドノ歴史ヲ有スルモノデ、近クハ我千里眼ノ念写等モ、之ニ含マルベキモノダガ、心霊学ガ尚充分発達シテ、客観的ノ説明ヲ為シ得ルニ至ルヲ俟ツベキモノデアラウ。[石原(保)]

心霊学の発達をまつというのは、充分心霊写真という現象に好意的に思える。執筆した石原保秀は明治10年生の医史学者。同辞典では「心霊療法」も執筆している。
そして、変態心理の中村古峡は「心霊物理現象」を担当。記述の末尾に「従来発表サレタ是等ノ現象中ニハ、詐欺又ハ手品ノ種ノアガツテヰルモノモアルガ、又、ドウシテモ詭計ノ存在ヲ否マザルヲ得ナイヤウナ神秘的ナモノモアル。[中村(蓊)]」とあって、これは心霊物理現象に随分好意的である。中村は「千里眼」も執筆している。2つの百科事典をみただけだが、もっと多くの事典でオカルト関係の項目を調べて比較したら面白そうだ。

今なお古書価沸騰中!桑田欣児の霊術本

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先日街角で本ノ猪君とすれ違って、そう言えば四条河原町の京都マルイ前で古本市をやっていたなあと思い出し、のぞいてみた。そうすると、桑田欣児『家庭読本』(真生会本部、昭和12年12月)を発見。東京くりから堂出品、52頁の小冊子で300円。発行所の真生会本部は、現在の北海道芽室町に所在した。
桑田というと4年前書物蔵氏に連れて行ってもらった中野ブロードウェイまんだらけにあった桑田本の買取強化中のチラシが記憶に残る。チラシを掘り出して見ると、『霊能開発法一名寂玄術』(二松堂書店)が15万円、『修養法』(真生会本部)が10万円など、桑田の霊術本の買取価格がいい値段になっている。この値段に利潤を上乗せしても売れる当てがあったのだろう。一過性の現象だろうなあと思っていたが、今まんだらけのサイトを見ると、今年3月現在で前者が18万円、後者が20万円。値上がりしてるではないか。文学者の初版本の値下がりが著しい昨今の古本事情の下でも、霊術本は値上がりしてるのか(◎-◎;)
霊界廓清同志会編『霊術と霊術家:破邪顕正』(二松堂書店、昭和3年6月)によると、桑田は大正10年清水英範の東京心理協会の十勝支部長として霊術をスタート。その後帝国心霊研究会長として独立。同書ではボロクソに書かれていて、解説の末尾に「運命は馬鹿に宜い。こんなに罵られても、万難に打ち勝つ幸運児となる。悪人栄えて善人が亡び石が流れて木の葉が沈むかネ」とある。確かに古本の世界でも桑田は「幸運児」となったようだ。
ところで、私が買った『家庭読本』は「この小著は『真生の道』の下書の出来ただけを印刷に附したもの」とあり、国会図書館にある『真生の道』(真生会、昭和15年12月)の一部であった。内容は、良縁成立法や夫婦和合法の話で、霊術とは無関係であった。残念(´・_・`)