神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

 [トンデモ][柳田國男]国際政経学会の増田正雄は昭和34年まで生存していた

高校の日本史で習った「西原借款」を覚えているだろうか。大正期中華民国に対する借款を担当した西原だが、その日記『西原亀三日記』(京都女子大学、昭和58年2月)が山本四郎編で刊行されている。巻末の「主要人名・事項索引」を先に見ると、面白そうな人物は内田良平ぐらいであった。一応本文を読んでいるが、索引では黙殺された増田正雄が出てきた。

(大正十一年十二月)
九日 (略)
神戸に増田正雄氏の来訪を受く
二十四日 清(ママ)養軒に増田正雄氏を訪ひ天小町にて昼餐の饗を受け近況を談し(略)
(大正十二年一月)
六日(土) 本日午后壱時より生の知人の為に催されたる顔世清氏の支那公使館に於ける書画展観に半日を楽めり。會するもの
 田中大将、勝田前蔵相、山根男、福原男、池田男、徳富蘇峰、原田金之助、清水釘吉、樺山資英、川村従(カ)蔵、永井平蔵、増田正雄、石井光雄、入沢達吉博士、高橋大華等の諸氏
二十二日 午前十時田中大将邸に水野子爵・福原男爵・増田正雄君と落合ひ、前日會合の情勢と将来の方策に関し凝談し昼餐を共にして祝杯を擧く
(大正十四年七月)
十八日 午后二時神戸着、増田正雄君、鮮銀藤巻君の出迎を受け(略)
午后七時より大阪商業會議所に於ける日露協會主催の講演に臨む。約弐時間半支那の将来に関し時局談をなす

( )内は編者による。「カ」は「西原の書体は特異のものであり、決定しかねるもの」

複数回登場していても「主要人名・事項索引」から省いてもいいが、同時に登場する重要な人名との関係で増田は索引に挙げておくべきであろう。この増田が実業家で柳田國男と交流があり、国際政経学会常務理事を務めた国家主義者の増田に同定できる確証はないが、おそらく同一人物だろう。
ところで、増田正雄でググったらヤフオクに『神日本』の中里義美宛増田正雄書簡が出ていた。昭和34年5月14日の消印で神奈川県高座郡寒川町の皆川病院内から投函されていた。増田は昭和34年の時点でまだ健在だったのだ。
(参考)「[国際政経学会常務理事増田正雄の正体 - 神保町系オタオタ日記」、「結城禮一郎と柳田國男 - 神保町系オタオタ日記」、「国際政経学会常務理事増田正雄の敗戦前後 - 神保町系オタオタ日記