神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

セセッション式流行の大正初期に発行された村上辰午郎の『大正婦女社会』

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第1回古本バトルは多少好評だったようで、第2回古本バトルも開催された。第2回分は取材を受けて、京都新聞6月28日朝刊の「多面鏡」欄に掲載され、石原和先生持参の『一尊如来教々義』(一尊如来教団)や私が持参した『神代文化』(神代文化研究所)が紹介された。その後、同新聞7月14日朝刊の末延芳晴「私の京都新聞評」で前記「多面鏡」の記事が取り上げられ、「吉永進一氏の友人という古書収集家が「ごそごそとリュックから取り出した」、紙の色がやや変色した『神代文化』という雑誌」の内容や来歴にショックを受けた樺山記者の記事について、記者の内部に隠された特異な「資質」のようなものが見える良い記事と褒めていた。
さて、第1回古本バトルに持って行ったが紹介できなかった雑誌に『大正婦女社会』2巻5号(大正婦女社、大正3年5月)がある。神保町の魚山堂書店の200円の値札が貼ってあるので、東京古書会館の古本市で買ったのだろう。
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戦前のマイナーな婦人雑誌に興味がある上、目次にあるように村上辰午郎「催眠術講習」が載っていたので購入。村上はこんな婦人雑誌にまで催眠術の記事を連載していたのかと思ったら、奥付を見ると村上自身が編輯兼発行人であった。国会図書館サーチやCiNiiでヒットしない(←追記:CiNiiには出ていた)。ただ、『日本婦人問題資料集成』10巻(ドメス出版、昭和55年5月)の『近代日本婦人問題年表』に大正2年1月創刊と挙がっているので、どこかの図書館に存在するのだろうか。
村上辰午郎は霊界廓清同志会編『霊術と霊術家:破邪顕正』(二松堂書店、昭和3年6月)に東京心霊研究会長として高く評価されている上に、「真に傑出した霊術家」の一人として、

村上辰午郎君(東京心霊研究会) 今から二十四年前、明治三十八年頃から、医学博士遠山椿吉、文学博士福来友吉両氏と共に時々各地にて、催眠術に関する講演会を開催した。是れより催眠術の声価は益々世間に高くなり、遂に今日の隆昌に達した。

と書かれている。更に、同書最後に「玉は玉、石は石」を寄稿しているので、霊界廓清同志会の一員だったのだろう。経歴は、日本力行会編『現今日本名家列伝』(日本力行会出版部、明治36年10月)から要約すると、

明治3年10月 加賀国会沢(正しくは金沢)生
明治28年 第四中学校卒。帝国大学文科大学へ入学して倫理、教育2科を専修
明治32年 同大学卒
陸軍砲工学校嘱託教授を経て、外国語学校教授、農科大学講師、京華中学校講師等の職を務める。

これに加えれば、明治32年7月東京帝国大学文科大学哲学科卒で、同期に遠藤隆吉、加藤玄智、西晋一郎、波多野精一福来友吉。「ざっさくプラス」で167件ヒットし、最後に確認できるのは昭和17年から18年にかけて『弘道』に「神社に就いて」を執筆していることである。
『大正婦女社会』の記事はあまり面白くないが、広告がよかった。東京帝国大学講師の肩書の付いた村上の『最新式催眠術』(成美堂書店)再版の広告が載っていた。裏表紙は三越呉服店の広告で、大正初期に日本で流行したというセセッション式が婦人傘にまで及んだ例である。
追記:『弘道』604号(日本弘道会昭和17年9月)の「本会彙報」によると、村上は昭和17年8月没

△協賛会員村上辰午郎氏は予て病気の折八月十三日遂に逝去(略)谷会長及松平会長時代本会の中枢部にあつて活躍された功労者(略)

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