神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『京都人物山脈』(毎日新聞社)に万屋主人金子竹次郎

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何年か前の京都古書会館の古本市で『京都人物山脈』(毎日新聞社、昭和31年12月)を見つけた。毎日新聞京都市内版の連載をまとめたもので、京都の産業、文化、芸能などの各界の人々の群像を描いている。戦後の京都に興味はないし、広く浅い本はダメと思ったが、「旅館」の項に「京都の文人宿万屋主人金子竹次郎が残した日記 - 神保町系オタオタ日記」で言及した万屋の金子竹次郎が出てくるので購入。数年ぶりに掘り出して読んで見ると、人名索引は完備しているし、「美術商、表装」、「詩」、「出版」、「書店」、「映画」など面白い項目もある。「染織図案」では、最近調べている人物について有益な事が載っていた。惜しいのは「喫茶店」の項がないことだが、昭和30年前後の京都について調べる時には便利だろう。
さて、金子については次のようにある。

谷崎潤一郎長田幹彦吉井勇らの老大家と二十代のときから親交があり、これらの人々に祇園街を案内したのが“万家”ーーよろずやーー金子竹次郎(七一)で四代目。一中ーー同志社文学部卒(明四二)で京都での最後の漢学塾の光堂塾で四書五経を習った。文学青年だったため京大茅野教授夫婦(ドイツ文学)と親しく、同教授と吉井勇が近しかったため吉井とも深くつき合うようになった。谷崎の”朱雀日記“長田の“尼僧”などが生れたのもそのころ。島村抱月坪内逍遥、太田喜二郎、中沢弘光、小絲源太郎などとも若いときから深い交り。今でも絵を描きチャーチル会員。長男和太郎(三八)ーー同大経ーーはオヤジの弓道好きの血をひき同大で後輩に弓を教えている。

他の文献では見られなかった情報が出ていて、役に立つ。そもそも、店名は萬屋が正しいと思っていたが、萬家が正しいのかもしれない。写真等で確認する必要がある。

古本バトルに持って行かなかった世界の秘密境特集の『科学画報』

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本の雑誌』6月号が特集「本の街の秘境に挑め!」ということで、秘境ネタを。今年1月に人文研でワークショップ「余白の宗教雑誌:宗教と宗教ならざるものの間」が開催され、番外編として「限界宗教雑誌バトル:書棚のすきまから」があった。バトルには私も出て、古本の師匠である岩本道人先生との師弟対決という名の古本自慢話を想定していたが、参加者が持ってきたレア本へのコメントを求められ、単なる古本オタクのオタどんにはやや冷や汗ものであった。お正月気分もまだ抜けていないオタどんは、宗教関係の研究者は知らなそうな雑誌とか本を幾つか持って行ったが、参加者の分に時間を取られ、全部は紹介できなかった。もっとも、参加者の持参された本が驚嘆すべきもので、本の紹介も研究発表レベルのものもあり、それはそれでよかった。岩本先生の分は、各発表者との関連も踏まえて戦前から戦後に至る宗教雑誌・オカルト雑誌の流れを俯瞰するメディア論とも言うべき構成のラインナップを揃えていたようだが、時間切れということでせっかくお持ちいただいた雑誌群の紹介は見送られた。
さて、当日は、大道晴香先生の「<秘境>の時代ーー「オカルトブーム」前夜としての60年代ーー」の発表もあった。70年代のオカルトブームの前史としての60年代の秘境ブーム、とりわけ後に大陸書房を興す竹下一郎による雑誌『世界の秘境シリーズ』を分析したものである。聞いていて、私は「しまった!『科学画報』の世界の秘密境特集号*1を持ってくればよかった」と思ったのであった。写真がそれで、特集と冠されてはいないが、

アラスカの原始部落を訪ふ 宮武辰夫
米食人蕃族の地を探る 布利秋(マスター・オブ・アーツ)
聖地西蔵の秘密 青木文教(本派本願寺室内部)
赤道直下の人外境スマトラの旅 田中館秀三(東北帝国大学講師理学士)
ツンドラと森林湖沼地帯の旅 黒田乙吉(大阪毎日新聞記者)
南半球の別天地マダガスカルの旅 大山卯次郎(法学博士)
宝境蒙古の秘密 長峰桂介(陸軍大佐)
天外の孤境パミール高原 柴山雄三郎(理学士)

の構成である。表紙絵は宮武の「オーロラとトーテムポールのアラスカ原始部落」である。宮武の肩書きがないが、巻末の「錦町より」には「アラスカ探検家として有名な宮武辰夫画伯」とある。宮武については、私も「原始藝術品蒐集者にして幼年美術研究者だった宮武辰夫のもう一つの顔」や「『田中恭吉日記』にひそめる宮武辰夫」などで紹介した人物である。科学雑誌でも活躍していたか。
国会図書館サーチで「秘密境」を検索すると、南洋一郎『南海の秘密境:冒険小説』(偕成社昭和15年)など用例が幾つかヒットする。より詳しく「ざっさくプラス」で「秘境」及び類似語を検索したら面白そうである。古本市で科学何とかという雑誌を見かけてもつい無視しまいがちだが、特に戦前の科学雑誌は要注意だとあらためて認識した。ちなみに、『科学画報』22巻6号、昭和9年6月の表紙絵はネッシーで、渡邊貫「ネス湖怪物の正体吟味」も載っている。まさしく、未確認生物・飛行物体まで扱った『世界の秘境シリーズ』に近似した号もあるようだ。

*1:『科学画報』15巻1号(科学画報社、昭和5年7月)

明治25年博愛社創立者の小橋勝之助が観た京都パノラマ館

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だいぶ前に一乗寺の萩書房Ⅱの100円均一台で『小橋勝之助日記『天路歴程』』(博愛社平成23年10月)を拾った。非売品、119頁。長らく積ん読だったが、掘り出してようやく読んだ。博愛社は、明治23年現在の相生市で創立され、小橋の死後の明治27年に大阪に移転した博愛慈善事業のための結社で、現在も社会福祉法人として存在する。本日記は、明治25年2月から12月までの日記だが、北海道視察に向かう途中に寄った京都に関する記述が面白い。

(明治二十五年六月)
十一日(土曜)(略)晩食後京都パノラマ館に入りて明治維新革命の活画を見て大に感ぜり維新の革命は愛国の志士が血を流して購ふたる所のものなり明治第二の革命即精神的革命将に来らんとす誰か血を流して其革命に従軍するか主よ愛国の志士を起し第二の革命を我国に来らしめ御国を我国に在らしめ玉へアーメン又同館の楼上より京都市中を眺めしに京都は三面山に囲まれたる地にして神社仏閣多く実に因循の地なり工商業は是の地に於ては発達せざる所也其より市中を徘徊するに悪魔の機械備はれり実に慨嘆の至りに耐へず

京都パノラマ館を観覧しているね。ネットで読める「見世物興行年表」の「パノラマ二十三」によると、新京極三条のパノラマ館で明治25年5月20日から画工芳洲による伏見戦争の画を展示している(同日の大阪毎日新聞)。小橋が記録した「明治維新革命の活画」がこれだろう。「芳洲」は画家野村芳国で、映画監督野村芳太郎の祖父らしい。小橋によれば、京都パノラマ館は市中を眺められる程の高さがあったようだが、写真は残っているだろうか。

シルヴァン書房で関西音楽団の甲賀夢仙宛絵葉書

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四天王寺春の大古本祭りも終わった。例によって、シルヴァン書房で絵葉書をシャカシャカした。写真は、東区常盤町二丁目関西音楽団の甲賀先生・同浪江宛の絵葉書である。消印は明治43年6月28日。差出人は、森ノ宮の芳香。調べてみると、「甲賀先生」は甲賀夢仙(本名・良太郎)である。橋爪節也編著『大大阪イメージ』(創元社、平成19年12月)中の毛利眞人「“大大阪”と洋楽ーー大阪音楽協会とオーケストラ小史」によると、甲賀は明治初期の大阪で大きな役割を果たした第四師団軍楽隊の楽手だった。

楽手のうちサックス奏者の甲賀夢仙は東京陸軍教導団付属軍楽隊から大阪鎮台に赴任。明治二十四、五年に大阪市内で手風琴(アコーディオン)が流行しているのを見て取ると、アコーディオンバンド「関西鼓勇会」を組織して、他の民間楽隊と同様な活動をした。やがて人数の多くなった関西鼓勇会から吹奏楽団のパートが独立してできたのが、明治二十六年結成の中央音楽団である。明治二十七、八年の戦役を区切りに流行が手風琴から提琴(ヴァイオリン)に移ると、私塾を開いてヴァイオリンの普及に努めた。明治四十年代にはヴァイオリンやピアノ、サキソフォン、等から成る「関西音楽団」を主宰した。

また、ネットで読める塩津洋子「明治期関西ヴァイオリン事情」には、
明治16年より陸軍軍楽隊の隊員
明治21年陸軍第四師団軍楽隊が設置された際にその一員として大阪に赴任
明治25年除隊
サキソフォンの他に、クラリネットアコーディオン、ヴァイオリン等を演奏する洋楽系の音楽家だが、ヴァイオリン楽譜出版では邦楽を中心とした
ことなどが書かれている。関西音楽団の詳細はどちらでもわからない。
絵葉書の文面は、甲賀から音楽会のプログラムと切符を送られたが、流行性感冒にかかり行けなかったことへのお詫びのようだ。

大大阪イメージ:増殖するマンモス/モダン都市の幻像

大大阪イメージ:増殖するマンモス/モダン都市の幻像

明治期教科書の証紙は謎だらけ

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みやこめっせの古本まつり最終日をのぞいてきた。ヨドニカ文庫がまたまた戦前の教科書類を300円で出していて、見返しや奥付の証紙に注目して「証紙買い」をもくろむ。早速、亀谷省軒編『修身児訓』巻之6(光風社、明治13年11月)を発見。見返しではなく奥付に証紙が貼られている上に、よく見ると「亀谷検査之証」ではなく、「亀谷検査之印」とある。「明治14年教科書『修身児訓』に貼られた検印紙 - 神保町系オタオタ日記」で明治14年の文部省通達を受けたものかとした推測は間違っていたことになる(´・_・`)
ここで稲岡勝『明治出版史上の金港堂ーー社史のない出版社「史」の試みーー』(皓星社)に登場してもらおう。39頁に出版社が採った偽版対策の諸類型があがっている。

1 真版の文言を記載した漉入りの別紙を挿入したもの。
2 ‘’真版之証‘’印を扉や別紙に捺印したもの。
3 蔵版之証などとした証紙(印紙)を貼付した上、消印を施したもの。
4 奥付や見返し紙の該当箇所に出版者印を捺印したもの。
4’ 右のうち更に、魁星像ないしその変形と思われる円形の朱印を見返し紙に捺したもの。

類型1は慶應義塾出版社と光風社の2例だけで、後者には亀谷行『修身児訓』(明治13年11年25日版権免許)などがあるという。私が拾った本である(亀谷行は亀谷省軒の本名)。同書は偽版が出るほど良く売れたが、分板によりその需要を満たしたらしく、異版が数種あり、その中に漉入り別紙を用いず、「亀谷検査之印」という証紙を貼付(類型3)した例外(弘文北舎・大島勝海など)もあるという。まさしく、今回私が見つけた証紙だ。分板(分版)は、自社の生産能力では需要に対応できない場合、許可を与えた出版者に新たに版木を彫らせ、それにより印刷製本、販売させたものである。写真の『修身児訓』巻之6の奥付に「分□人」として浪華文会主日柳政愬があがっているが、分板人(分版人)の例だろう。
ところで、類型3の証紙には、著者名を付した証紙があり、これが検印紙につながるようだ。『修身児訓』巻之4に貼られた「亀谷検査之証」を「検印紙」と呼んだのは不適切なので、撤回しておこう。
なお、タイトルは横田順彌『明治時代は謎だらけ』(平凡社、平成14年2月)からお借りしました。
(参考)『修身児訓』巻之4の異版も入手したので2冊並べた写真をあげておく。出版日や製本者、丁数は同一だが、奥付の記載内容が異なるほか、全体の字体が異なる。片方には証紙が無いが、剥がされた穴があり、押印の跡もかすかにあるので偽版ではないようだ。
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土田杏村が青柳秀雄の没年を教えてくれた

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書物蔵氏らが来るということで蔵書の「整理」(という名の山積み)をしたため、色々埋もれていた本が出てきた。書砦・梁山泊で買ったか、山根徳太郎旧蔵の『土田杏村とその時代』12・13合併号(上木敏郎、昭和45年4月)もそんな1冊である。杏村の思い出を語る文章のほか、松岡譲、生方敏郎長谷川如是閑らの追悼特集である。生方については、「生方敏郎略年譜(未定稿)」を作ったことがあるので、買ったのであろう。
ところで、ふと「あとがき」を読んでいたら驚いた。

○この半年の間に実に多くの方々が他界されました。(略)
松岡譲、木戸若雄、生方敏郎長谷川如是閑の諸氏については、本文で取り上げました。その他の方々についても、わたくし自身の追悼文を書く予定でおりましたところ、紙数の都合で次号にまわさなくてはならなくなりました。ここには一応、お名前だけを記して、とりあえず哀悼の意を表したいと思います。
川崎寅吉氏、前芝確三氏、池田岩一郎氏、江部鴨村氏、国府田国一氏、伊藤整氏、青柳秀雄氏、黒部伝二郎氏、染村亀鶴氏、大妻コタカ氏、酒井寅吉氏、中村孝也氏。

わっ、青柳秀雄の名前が。誰ぞが追いかけ、わしも「佐渡民俗研究会の青柳秀夫と三田村鳶魚」などで言及した青柳だが生没年は未だ不明である。杏村も青柳も共に佐渡の出身なので同一人物の可能性が高い。本誌の他の号を見れば、もっと青柳のことが判るかもしれない。今のところ、昭和44年又は45年没と見てよいのだろう。なお、タイトルを「土田杏村が青柳秀雄の没年を教えてくれた」としたが、勿論教えてくれたのは、上木(かみき)である。

謎の極東簡易図書館ーー下田歌子編『和文教科書』に押された蔵書印ーー

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初日に古本猛者らと廻ったみやこめっせの古本まつりも最終日ということで、また行ってきました。ヨドニカ文庫の戦前期教科書300円コーナーでしつこく猟書。2月の京都古書会館の古本まつりの時に見つけたが結局買わなかった「極東簡易図書館蔵書」印のある源歌子編『和文教科書』2之巻がまだあった。せっかくなので拾っておく。
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「大野一朗氏寄贈」とあるラベルや「有野図書館印」もある。発行年の記載はないが、ネットで読める久保貴子「下田歌子の『和文教科書』考ーー「六之巻 更科日記」を中心にーー」によれば、源歌子は下田歌子で2之巻は明治19年4月発行、21年11月再版である。また、日本図書館協会から復刻版が出た『全国図書館に関する調査』(文部省普通学務局、大正11年10月)の「一覧表」(大正10年3月31日現在)によると極東簡易図書館は見当たらないが、兵庫県私立図書館に有野図書館があり、明治40年9月設立である。これらのことから推測すると、極東簡易図書館→大野一朗→有野図書館という来歴だろうか。大野は極東簡易図書館の関係者だったかもしれない。それにしても、極東簡易図書館がどこにあって、どういう図書館だったのかまったく謎である。