神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

明治14年教科書『修身児訓』に貼られた検印紙

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昨日言及した『小汀文庫稀書珍本展観入札目録』を見つけた箱の中には、『アステ』(リョービイマジクス)も何冊か入っていた。6号(校正特集)、7号(横組特集)、8号(新聞特集)を見つけたが、探していた3号(奥付特集?)はなかった。なぜ、3号を探していたかというと・・・
今年2月京都古書会館の古本まつりで、ヨドニカ文庫が戦前の教科書を300円均一で出していた。教科書以外の本が紛れていたり、珍しい蔵書印が押された本がないかと、あさってみた。そうすると、亀谷省軒編『修身児訓』巻之4(光風社、明治14年6月)に「大島」印の押された「亀谷検査之証」紙が貼られているのを発見。編輯兼出版人は光風社長亀谷行、製本発売は大嶋勝海である。蔵書印さんがtwitterで検印紙の起源について話題にしていたのを思い出した。そこでは、ネットで読める林哲夫「疑り深い「著者」の誕生」をリンクしていて、稲岡勝「検印紙事始」によると、明治14年文部省が教科書の偽版(海賊版)を防ぐ意味で「本省ノ書ニハ毎冊見返シノ端ニ見本ノ如キ印紙ヲ貼用シ発行可致候」云々という通達を発したことが検印紙普及の契機と推測されるという。今回発見した「亀谷検査之証」は文部省の通達を受けた初期の検印紙の例ではなかろうか。ただし、検印は出版人である亀谷ではなく製本発売の大嶋が行ったようである。この当時東京都立中央図書館司書であった稲岡先生の論考「検印紙事始」が載ったのが『アステ』3号で、それで四天王寺の古本まつりの100円均一台で同誌を見つけた時、必死になって3号を探したのであった。
なお、稲岡先生の『明治出版史上の金港堂ーー社史のない出版社「史」の試みーー』(皓星社)が3月刊行されました。

明治出版史上の金港堂 社史のない出版社「史」の試み

明治出版史上の金港堂 社史のない出版社「史」の試み

天理図書館の金子和正旧蔵『小汀文庫珍本展観入札目録』

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四天王寺春の大古本祭5日目。東京から古本猛者が押しかけてくるというので、100円均一コーナーで待機していると、追加されたらしい箱を発見。目録・図録などが入っていて、『小汀文庫稀書珍本展観入札目録』(東京古典会、昭和47年)が2冊あった。一方には書き込みがあるので、普通は書き込みの無い方を買うべきだが、今回は違った。書き込みは、赤ボールペンで落札者と落札価格を書いたものだからだ。当然、資料的価値のある方を確保。昭和47年5月に開催された小汀(おばま)利得の旧蔵書入札会の目録である。この入札は、反町茂雄『蒐集家・業界・業界人』(八木書店、昭和59年6月)によれば

小汀文庫珍書の大入札会 (略)
小汀氏は日本経済新聞の記者として成功し、戦前すでに社長の重任につき、戦後は政治・経済評論家として晩年まで、指導的な地位を占めた人ですが、古書の蒐集家としても最大の人物であります。
対象は珍書稀籍を専らにして、組織・体系を持つものではない点は、岡田・ホーレー両氏のとは別ですが、善本の数に於ては前者に勝り、後者に迫るほどの内容であります。(略)

この後、書名と落札価格が続く。2点だけ入札目録と比較すると、『古今和歌集』2帖(後京極良経筆 鎌倉初期頃写)550万円は一致する。『臨済録』(嘉暦4年刊 五山版 天下一品)は反町著が349万9千円、入札目録が349万9千9百円でほぼ一致する。反町著には落札者の記載がないが、前者が広文(広文庫と思われる)、後者が○に三(三茶書房?)である。均一台からは、入札目録のほか、『おぢばがえりのお土産絵 一枚刷り版画集』(天理図書館、平成22年10月)などを購入。
入札目録には「金子」の印が押されていて、金子という名の古書店だろうなあ、そのうち調べようと思っていた。ところが、翌日、みやこめっせの古本市であがたの森書房に出版、書誌学、古書店関係の良質な本が出ていて、これが金子和正という人の旧蔵書であった。ネットで読める「庶民が手にした印刷物」*1によれば、昭和24年から天理大学図書館に勤務、その間天理大学助教授、天理図書館貴重書部長を歴任した人であった。ちなみに、金子旧蔵書からは、私は『須原屋の百年』(須原屋、昭和51年11月)を、書物蔵氏は『書誌学月報』(青裳堂書店)揃いを購入した。大阪の古本市と京都の古本市の両方に金子旧蔵書が出たということは、大阪の市会にでもまとまって旧蔵書が出たのだろうか。

蒐書家・業界・業界人

蒐書家・業界・業界人

*1:『日本印刷学会誌』45巻4号、平成20年

横田順彌先生に薄井秀一の経歴を解明したと報告したかった

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SFマガジン』6月号は「横田順彌追悼特集」である。中学生の時買い始めた同誌に横田順彌先生の「日本SFこてん古典」が連載されていた。ここで古典SFの存在や古本探しの面白さを教えていただいた。ただし、その後の長い古本歴の中で古典SFを買うことはほとんどなかったと思う。ヨコジュンさん(と呼ばせてもらおう)が巧みに紹介しているから面白そうと思ってしまうが、原典に当たると実際はそれほど面白くないからである。連載の中で特に印象的だったのは、謎のSF作家羽化仙史(本名渋江保)の正体が森鴎外の史伝で知られる渋江抽斎の息子と解明したことである。「大発見」だと思ったものだ。
さて、私はこのブログで、ヨコジュンさんが「海にも出てきた薄井秀一」*1などで追いかけた薄井秀一と菅聡子先生が追いかけた「モダン・ガール」の最初の使用者北澤秀一が実は同一人物だと解明した。詳しくは、
久米正雄が昭和2年に失ったもう一人の友人北澤秀一(その1)
久米正雄が昭和2年に失ったもう一人の友人北澤秀一(その2)
久米正雄が昭和2年に失ったもう一人の友人北澤秀一(その3)
微苦笑の人久米正雄とモダン・ガールの人北澤秀一
を参照されたい。その後曾孫の北澤豊雄氏による「漱石と「モダンガール」創始者とロンドン娘の恋文と…|夏休み特別ノンフィクション | クーリエ・ジャポン」が発表され、私の推測の正しさは裏付けられた。もっとも、生年を明治12年か13年と推測したが、正しくは明治17年であった。ヨコジュンさんはパソコンを使われなかったそうなので、拙ブログを知る機会はなかったと思われるが、あなたのファンだったオタどんが薄井秀一の謎を解きましたよと報告したかった。

*1:『明治時代は謎だらけ』(平凡社、平成14年2月)所収

大正4年お札博士フレデリック・スタールが京都府立図書館で見た納札集

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上の絵葉書の中央に写っている外人が誰かわかるだろうか。先日ナンダカアヤシゲな人に見せたら、ズバリと「お札博士スタール」と解答していた。スタール博士は来日中着物を着ていたことで知られるが、この写真では洋服のようだ。私も中央の人物がスタール博士だというのはわかるが、他の人物はわからない。右手後方に1人で立っている髭の人物は坪井正五郎に見えるが、断定できない。『内田魯庵山脈』に「精神の系譜を捏造するーーフレデリック・スタール」を書いた山口昌男ならもっと解明できただろうか。今後とも引き続き調べて行きたい。
さて、スタール博士だが、大正4年11月に京都府立図書館に出現していた。『お札博士の観た東海道』(大日本史図書、大正5年3月)の注目すべき次の一節。

第十八日 十一月二十二日 大津より三條橋まで
(略)
午後のプログラムは悉皆社の方に一任し、第一に図書館へ行つて納札を見た。館長には氏がエールでハーパー博士(Dr.Harper)と研究されてゐた折、御目にかかつたことがあつた。それは一八八九年、今から二十七年前のことであつた。二千四百枚の納札が、十二巻の本になつてゐた。他に九十幾度の印刷を経る錦絵の製作法を図解する本もあつたし、広重の五十三次の原本(一八三四年、天保五年)などもあつた。垂涎禁ずる能はざるものであつた。
(略)

当時の図書館長は湯浅吉郞である。『図書館人物伝ーー図書館を育てた20人の功績と生涯』(日外アソシエーツ、平成19年9月)の高梨章「半月湯浅吉郞、図書館を追われる」によると、湯浅は明治18年同志社を卒業後渡米し、オベリン大学で神学士の称号を得たり、エール大学で哲学博士の学位を受領していた。このエール大学時代の明治22年にスタールと出会っていたようだ。さて、図書館に納札があったというのも驚きだが、現在京都府立京都学・歴彩館に10冊の納札集が存在するようだ。スタールの記録する12巻とは冊数が異なるが、大正4年にスタール博士が見た納札集かもしれない。そうだとすれば、「優秀な」図書館員はしばしば「これは本じゃない」と貴重な史料を処分してしまうらしいが、捨てられずによくぞ残っていたものである。

芸艸堂のPR誌『美術タイムス』

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飯澤文夫「続PR紙誌探索(1)」が『日本古書通信』4月号に載っているというので、京阪書房で買ってきた。そう言えば、高橋輝次氏も『雑誌渉猟日録 関西ふるほん探検』(皓星社)によれば、定期購読せずに必要の都度京阪書房で買っているようだ。さて、飯澤氏の寄稿に明治大学中央図書館ギャラリーの企画展のリーフレットに『神保町が好きだ!』の飯澤編「出版社・書店等PR誌一覧」の改訂版を掲載したとあった。そんなものがあったとは知らなんだ。誰ぞのことだから行ってたらわしにもくれただろうから、誰ぞも行ってないのだろうなあ。更に飯澤氏はその後も探索を続け、戦前は50誌、戦後は169誌の計219誌を確認したという。
ところで、3月の大阪古書会館の古本市で、『美術タイムス』15号(芸艸堂、昭和5年1月)なる雑誌を発見した。矢野書房出品。編輯兼発行者は美術タイムス社編輯部。非売品で、10頁までは記事で、38頁分が美術図書目録である。内容の一部をあげると、

絵巻に就て 西澤笛畝
鉄線 金井紫雲
『浅井忠』刊行に就いて 石井柏亭
恩賜京都博物館に於ける浅井忠氏遺作展覧会
東京朝日新聞ナイフ欄に於ける『浅井忠』の批評
本邦の装幀 新村出
維新後の友禅染 村上文芽
新刊紹介
編輯後記

金井のは『花と藝術』からの抄録、新村のは津田青楓『装幀図案集』の序文。記載は無いが、石井のも石井編『浅井忠:画集及評伝』の序文。西澤や村上も芸艸堂から著書を出しているので、著書からの抄録かもしれない。内容の殆どが発行物の抄録だとすると、飯澤氏のいうPR誌の要件の1つである「書評、エッセイ、文芸作品などを掲載して読み物としての要素を備え」に該当するかは微妙だが、把握されておられるだろうか。

郷土玩具収集家としての宮脇楳僊こと宮脇賣扇庵4代目宮脇新兵衛

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京都新聞の「ウは「京都」のウ」ファイル15「緑紅さんによろしく」第3回(4月23日)は、田中緑紅の郷土趣味社を核に集まった「野」の知的人脈の話。昭和9年3月7日緑紅が南紀白浜から京都へ戻る途中、南方熊楠を訪問したエピソードが日記の写真と共に紹介されていた。もう一人、緑紅叢書の『伏見人形の話』で紹介された宮脇楳僊こと宮脇新兵衛(1893-1960)も登場。宮脇は京扇子を扱う老舗「宮脇賣扇庵(ばいせんあん)」の4代目で、郷土玩具の蒐集が万を超し、そのうち千点が大阪歴史博物館に「宮脇コレクション」として所蔵されているという。
私は宮脇の名は忘れていたが、拙ブログの「昭和14年のみやび会に結集した10人のコレクター群像」で言及していた。『和多久誌』(みやび会、昭和14年3月)に載っている宮脇の経歴を要約すると、

京都市上京区北野紙屋川町
宮脇楳僊
本名新兵衛、幼名彦太郎。号楳僊
明治26年1月 京都生
趣味は古玩及び郷土玩具を主として大小不問2万3、4千種を蔵す。
幼児より総ての物を蒐集するを好み、大正6、7年の頃宝船蒐集の流行を契機として、次第に蒐集欲を増し、郵券、燐票、木版、ポチ袋、絵葉書、古書、木版刷物その他一切の趣味品に及び殊に宝船は約4千枚を蒐集。

これによると、コレクションは1万点では済まなかったようだ。また、「田中俊次編輯『鳩笛』6号(ちどりや、大正15年3月)」で言及した『鳩笛』6号の「京都の趣味家(下)」にも簡単に紹介されていた。

宮脇彦太郎 現代の宝船蒐集の第一人者、五百余点、これ丈もつてゐる方は一寸ない。ポチ袋二千五百、これは的場氏*1と共に京都祝儀袋交換会の同人である。支那玩具も沢山に集められてゐる。お商売物の扇子に関したものゝ蒐集もせられてゐると云ふ。(略)

この大正15年の頃はまだ郷土玩具の蒐集はそれほど行っていなかったようだ。
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最後に今日から始まった四天王寺春の大古本祭りでシルヴァン書房から宮脇の昭和5年の年賀状を入手したので、これも写真をあげておこう。
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(参考)
緑紅叢書の田中緑紅が遺した約70冊の日記 - 神保町系オタオタ日記

*1:的場喜三郎と思われる。『和多久誌』によれば、京表具春芳堂に丁稚奉公から昭和14年まで45年勤務。玩具、版画物、宝船、絵封筒、祝儀袋、火事に関する刷物、お酒の商票、明治時代の燐票、煙草包装紙等を蒐集。

大正10年新京極に誕生した京都美術館という名の画廊

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高橋輝次『雑誌渉猟日録 関西ふるほん探検』(皓星社)の「渡仏日本人画家と前衛写真家たちの図録を読む」に大塚銀次郎が昭和5年神戸市元町に開いた神戸画廊が登場する。神戸の芸術家サロンと言うべき存在で、一時期は日本最初の画廊とされていたが、今は明治44年4月開設の高村光太郎の「琅かん*1堂」が最初とされているようだ。拙ブログの「武林無想庵の渡仏を助けた京都初の洋画商三角堂の薄田晴彦」で紹介した京都の「三角堂」を画廊と言ってよいのか分からないが、同年11月開設なのでいずれにしても日本最初の画廊ではないことになる。
ところで、昨年2月の京都古書会館の古本市でシルヴァン書房から『美術館誌』1巻1号(大正10年3月)なる新聞を見つけた。8頁、タブロイド判。最初は京都市美術館の館報と思ってしまい、図書館にあるだろうし止めておくかと思った。ところが、中を見ると株式会社京都美術館が発行、編輯兼発行人は山田旭だし、調べると京都市美術館昭和8年11月開館であった。これは面白そうだと購入。京都美術館の営業種目を掲げると、

東西大家絵画展覧会
新進画家作品展覧会
式紙短冊扇面画帳展覧会
美術品委託販売
美術二関スル金融信託業
美術二関スル諸材料販売

営業種目を見ると、美術館という名を冠した画廊だったようだ。「美術館」を名称独占とする法令はないから、画廊が美術館と称しても問題は無かっただろう。「謹告」によれば、大正10年1月末に創立総会を開き、2月上旬に登記をした。本館新築までは京都市下京区新京極三条下ル西側で仮営業を開始。現在天下一品新京極三条店がある辺りだろうか。1頁には創刊の辞がある。

(略)本館事業の一端たる本誌は時に斯界の時事を談し、時には直情径行にして他の褒貶を顧みす客観的批評を試み、又時には隠沈稀微の間に奇を得るの例に倣ひ、隠れたる不遇の作家を顕彰し、真に美術界に貢献すへく真摯の機関たるへく立脚し尚ほ広く海内外に頒布し、吾美術界の機微を報導[ママ]し、美術趣味向上に努力する、之れ本誌刊行の意義にして又偽らさる告白なりと爾云  館主再拝

記事の目玉は「京都の美術界」で、国展、反帝展や自由画壇の動向などが報告されている。「洋画家」の項から引用すると、

洋画家 (略)最近帰朝した都鳥英喜氏も時事に感したか、帰朝を機として東都に移住するとの評判、国松金左衛門氏も欧州留学の途に就きたりとのことにて、洋画家中の中心として大[ママ]田喜二郎氏か鴨の偶居に独り異彩を放つに過きん、京都洋画界は斯くして寂れ行くのであらうか。

『都鳥英喜展』(京都新聞社、平成13年)の年譜によると、都鳥の欧州留学からの帰朝は10年2月。当時は京都高等工芸学校講師で関西美術院教授であった。その後東京に移住はしていないが、そのような噂があったのだろうか。

雑誌渉猟日録 関西ふるほん探検

雑誌渉猟日録 関西ふるほん探検

*1:正しくは王偏に干