朝お出かけすると、たまに日文研へ出勤途上と思われる井上章一所長とすれ違うことがある。その井上先生が、講談社選書メチエ創刊30周年記念の冊子『執筆者150人が選んだ524+冊:1994~2024年ベストセレクション』(講談社)の「私が選ぶ選書メチエの『この一冊』」に寄稿していた。選んだ講談社選書メチエは、京谷啓徳『凱旋門と活人画の風俗史:儚きスペクタクルの力』(平成29年9月)であった。同書は私も「跡見花蹊が観た明治20年の工科大学校における活人画ーー京谷啓徳『凱旋門と活人画の風俗史』(講談社選書メチエ)への補足ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及していて、明治20年3月工科大学校で開催された日本初の活人画を跡見花蹊が観ていたことを紹介したところである。
同書の223頁には、「在留外国人が主体となった余興として、日本にも徐々に浸透し始めた活人画だが、すべてを日本人が行った本格的な上演は明治三六年(一九〇三年)を待たねばならない」とある。具体的には、発卯園遊会の活人画(同年4月)、歌舞伎座の歴史活人画(同年7月)、東京美術学校の設置10周年を祝う紀年美術祭の活人画(同年11月)を挙げている。
関西初の活人画はいつだったかというと、西川長夫・渡辺公三編『世紀末転換期の国際秩序と国民文化の形成』(柏書房、平成11年2月)の福井純子「京都滑稽家列伝」185頁に記載があった。虎屋町小文(本名宮田保次郎)という咄珍社*1の一員が明治35年関西初の活人画に金子錦二*2と共に出演したという。小文のだしものは「蟬丸」、金子は「斎藤実盛」だった。典拠は『京都美術協会雑誌』124号,同年10月28日で、日本人だけであったのか、どの程度の規模であったのかなどもっと詳しい情報を調べてみたい。