神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

昭和15年河口慧海の朝夕のお勤めを聴く池田弥三郎・加藤守雄・波多郁太郎


 堺市博物館で10月15日まで「河口慧海 仏教探究の旅ーチベットで求めたものー」開催中。定番のインド・ネパール・チベット旅行第1回・第2回関係のほか、出身地である地元ということで活動を支えた家族・親友・支援者関係、あまり研究されていない帰国後の活動にも着目した見応えのある素晴らしい展覧会でした。
 展示品の中に犍稚(板木)と木槌があって、解説によると自宅や不知庵で毎日朝5時と夜9時に玄関の外に吊り下げたこの板を木槌で打ち鳴らし、板に書いてある文句を唱えたという。文句の全文は「謹んで一切衆生に申し上ぐ 生死の問題は至大にして無常は刹那より迅速(すみやか)なり 各々務めて醒め覚れ 慎んで油断怠慢するなかれ 雪山道人慧海謹誌」と推定されている。不知庵は、日本画家松林桂月が赤倉温泉の別荘五秀山房の下に建てた茅葺きの庵である。慧海は、大正15年頃以降桂月から提供されて、夏の間保養を兼ねて研究・著述に励んだという。これで、慧海のこの朝夕のお勤めを旅先で聴いたことを記した日記を思い出した。
 誰の日記だったか直ぐに思い出せず、研究用ノートを見たらようやく判明した。「東京帝国大学文学部史料編纂所や折口信夫のゴシップが載った昭和10年7月2日付け『東京毎夕新聞』 - 神保町系オタオタ日記」で使用した池田弥三郎『わが幻の歌びとたち:折口信夫とその周辺』(角川書店、昭和53年7月)で翻刻された波多郁太郎の日記であった。

(昭和十五年八月)
十八日(日)(略)九時頃赤倉着。妙高倶楽部展望閣にゆく。池田、加藤が待っていた。山腹に面した離れ(略)。近くの杉の森の中に河口慧海師の庵があり、朝の五時と夜の九時に短い勤行がある。松林桂月氏の山荘も近い。(略)
十九日(月)晴。四時に眼が覚めた。五時に河口さんの御つとめがある。六時になると、前の駐車所のラジオで、近所の子がラジオ体操をやる。池田と僕は、謡曲をよむ。加藤は記紀歌謡を勉強する。池田と、先生の謡曲解説の筆記のよみ合せをやる。(略)

 池田の解説によると、防諜上警察がとがめるようになったため採集旅行は困難となり、赤倉温泉に滞在し、折口信夫の宿題の『謡曲三百五十番』を読んでいたという。折口の研究者ぐらいしか読まないであろう本書に、まさか慧海の不知庵における朝夕のお勤めを聴いた記録が残っているとは。これだから人があまり読まない日記を読んで「偶然記録」を発見するのは楽しい。
参考:「河口慧海のパトロンとしての高橋箒庵と『印度歌劇シャクンタラー姫』(世界文庫刊行会) - 神保町系オタオタ日記