夫賀川豊彦とともに神戸で活動していた賀川ハルの日記に
大正9年3月22日 昨夜集会に見へてゐた青年が来た。新しい宗教バハイ運動をして居る者だが、新学期から関西の神学部に聴講生として入ると云つてゐた。彼ハ又日本小女の下着の改良を計画して近々に着手する相だ。
神戸でバハイ教の活動が行われていたことは、秋田雨雀の日記にも見える。
大正9年10月18日 夜、三宮のカフエ・ガスでバハイ・ミーティングがあった。三沢、箱木の諸君来会。非常に愉快な会合であった。
ところで、世界文庫刊行会の箱木一郎は年譜によると、
1896年(明治29年)1月9日 兵庫県神戸市に生れる
1906年(明治39年)3月 鉄道技師であった父兼吉転勤のため、群馬県松井田町に転居
1914年(大正3年)3月 群馬県立高崎中学卒業
1922年(大正11年) 神戸基督教青年商業学校へ英語教師として就職
1923年(大正12年) 関西学院大学文学部社会学科卒業
箱木一郎は、大正9年の時点ではまだ神戸に来ていないようにも見えるが、中学卒業後、故郷の神戸に戻っていた可能性もあるし、大正12年4月上京後、賀川豊彦の紹介で沖野岩三郎の屋敷に寄寓したというので、バハイのミーティングに出席した箱木と同一人物の可能性はある。もっとも、関西学院神学部と文学部という違いはある。
ところで、秋田の後日の日記に箱木一郎が出てくる。
大正13年2月28日 箱木一郎君が来て、シャクンタラの解説を頼んでいった。シャクンタラの考証、川口、鈴木(重信)二氏の紹介と、シャクンタラの梗概を執筆することを約束した。
3月10日 『瑜伽論』を読んでいる。
3月26日 中央公論記者が『シャクンタラ姫』の稿料のことで来た。稿料は3¥とのこと。多分いいだろうと言ってやった。
ヂャィナ教典『瑜伽論』を読んだ、怒りと貪欲の条に教えられるところがあった。立派な経典だ。
鈴木重信は『世界聖典全集前輯第七巻 耆那教聖典』(世界聖典全集刊行会、大正9年12月)の訳者の鈴木と思われるが、同書刊行時には既に亡くなっている。「川口」は大正13年4月世界文庫刊行会からカーリ・ダーサ『シヤクンタラー姫』の訳書を刊行する河口慧海だろう。
秋田は、『中央公論』4月号に掲載された「記念指輪 シヤクンタラー姫」(著者カーリ・ダーサ、訳者河口慧海、現代口語体訳文鈴木重信)の後に「『シヤクンタラ姫』の後に」を執筆。「私は、世界聖典の研究且つ紹介者である篤学の士、松宮春一郎氏から河口慧海氏の梵語からの『シヤクンタラ姫』の原稿の通読及び紹介を依托された」と書いている。
(参考)「大空詩人永井叔とその時代」(4月6日)
「有島武郎と箱木一郎」(4月2日)
「東京国際倶楽部に結集したアジア人」(3月31日)