神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

河口慧海のパトロンとしての高橋箒庵と『印度歌劇シャクンタラー姫』(世界文庫刊行会)

高橋箒庵の日記『萬象録』、まさかの河口慧海が登場。河口の研究者は気付いているだろうか。巻7(思文閣出版、平成2年7月)から引用しよう。

(大正八年)
七月十一日 金曜日 半晴/寒暖計七十七度
[河口慧海師の西蔵経文翻訳]
午前、河口慧海師来訪(略)三、四年来東京に在りて頻に西蔵経文を翻訳し若くは西蔵語を教授するに就き、篤志十数人毎月金十円宛を支出して其事業を援け、余も亦其一人なりしが、去る六月を以て其補助期限終了したるを以て今度猶ほ更に之を継続せん事を希望し居れり。(略)幸ひ此程より外国語学校卒業生若くは帝大文学士などにて五人程稍西蔵語に熟達し翻訳の業に従ひ得る者を養生したれば、今後益々翻訳に従事したき考なりと云ふ。(略)已に印度中古の詩聖カーリダーサの有名なる歌劇シャクンダ(ママ。以下同じ)ラーを翻訳したれば御一読を乞ひたしとて大部の原稿一冊を貸渡され、此シャクンダラーは世界に名高き一大戯曲にして已に諸国語に翻訳せられたるが、独逸のゲーテは此シャクンダラー崇拝者にして、彼の作中最も有名なるハウストは実にシャクンダラーより換骨奪胎したる者なりと云ふ。因て余は暑中休暇中に一読すべしとて之を借受くる事と為せり。(略)

あたかもよし、ミネルヴァ日本評伝選から高山龍三河口慧海 雲と水との旅をするなり』が刊行された。これによると、大正6年有志の寄付を得て、チベット研究生を募り、またチベット経典翻訳に着手している。また、第1回チベット旅行後、大倉喜八郎に呼ばれて仏像の鑑定を頼まれ親密となり、大倉は最大の後援者となったという。多くの政財界人を紹介されたとあるから、高橋も大倉が紹介したのだろう。高橋自身は河口との出会いについて若干記録しているので、同巻3から引用しておこう。

(大正四年)
十月九日
(略)
[河口慧海師の西蔵請来品]
午後、上野美術学校内に開かれたる河口慧海師が西蔵(ルビ:チベツト)より請来の物品陳列を縦覧す。今度河口師の請来したる西蔵の物品は仏像、経文、薬草、鉱物、一切仏具、ヒマラヤ其他高山、都城、殿堂等の写真多数にて、一々記述するに遑あらず。折柄会場に河口師も来会せしが、余は前回師が初めて西蔵より帰朝したる時以来久し振りにて今日再会せしにぞ。師は喜んで会場内を案内しつゝ懇切に説明する所あり。而して其数多き請来品中最も珍しきは三体の木仏なり(略)

高橋が河口から借りたシャクンタラーの翻訳原稿に話を戻そう。大正8年8月2日読了した高橋は日記にその大意を記録した後、次のように書いている。

(略)過日余は河口師に向つてシャクンタラーを出版しては如何と言ひたるに、兎角演劇脚本は売行き捗々しからずと見え書肆に於て容易に之を引受けざるに依り未だ其素志を達する能はずと言へり。(略)今や師は向ふ一ヶ年中に日蔵学会或は梵蔵学会を起して、従来養成したる四、五名の学侶をして成るべく多く西蔵若くは印度書籍の翻訳に従事せしめ、日本人をして大に梵蔵学界の智識を吸収せしむる趣意なりと云へば、多寡の知れたる資本にて其目的を達すべき事とて、成る可く同志者を勧誘して同学会の成立を期したき者なり。
(略)

『印度歌劇シャクンタラー姫』上・下は、結局松宮春一郎*1の世界文庫刊行会から大正13年4月刊行。高山著によると、翻訳には明治41年から43年まで従事。高橋に見せてからでも刊行に5年かかったことになる。