神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

東京帝国大学文学部史料編纂所や折口信夫のゴシップが載った昭和10年7月2日付け『東京毎夕新聞』


 池田弥三郎『わが幻の歌びとたち:折口信夫とその周辺』(角川書店、昭和53年7月)は、折口の助手を務めた波多郁太郎の日記の翻刻と池田による解説によって、折口とその周辺の歌人・研究者の人間像に迫った好著である。中でも132頁にオモシロい記述があった。

[補遺]
 (引用者注:昭和十年)七月二日付の東京毎夕新聞が、帝大史料編纂所の所内の醜聞を曝露した記事を掲載したが、その中で、四組の恋愛事件の一つとして、折口と小泉登美子との名が二人の写真と共に、挙げられていた。折口に関しては記事らしい記事もなく、記者の、国学院閥への攻撃の、筆のいきおいのようなものであり、当の新聞が、あたかも今の、下等な週刊誌のごときものだったので、問題にもならなかったが、折口が訴えると言って、まわりの者になだめられたと、波多から聞いたことを覚えている。しかし、波多はそれを日記には記していない。この夕刊は、どういうわけかわたしの手もとにある。珍品である。

 折口の醜聞の相手になった小泉の経歴については、同書45頁に記されている。

(略)小泉登美子。石川県大聖専町に生れ、大正十二年、日本女子大の国文科を卒業、東京帝大の史料編纂所に勤務中、昭和十二年に病没した。『新万葉集』に十九首の短歌を遺しているが、大正十二年九月一日、東京本所の被服廠で、蘇生した人である。後に、赤新聞が、史料編纂所のスキャンダルを伝えたとき、折口との仲を書かれ、折口は大いに迷惑した。(略)小がらの、地味な、目立たない人だった。

 池田が言及している『新万葉集』第3巻(改造社昭和13年3月)の「作者略歴」から補足すると、小泉は卒業の頃より折口に国文学及び短歌の指導を受け、昭和12年の春没*1。享年35とあるので、折口の16歳年下であった。同書には、詞書に「大正十二年九月二日、被服廠にて蘇生」とある「死に人の肉の油の浸みてゆく土に覚めつつ肌冷えにけり」などの小泉の歌が収録されている。彼女は、関東大震災で約3万8千人の焼死者を出した被服廠跡の地獄を生き延びた人だったのだ。
 この二人の醜聞については、ググッてもヒットしない。が、念のためTwitter内検索をすると、「宇治の瀧屋」氏が4年前に言及していた。記事が載った東京毎夕新聞は、国会図書館サーチを検索すると東京大学大学院情報学環附属社会情報研究資料センターが所蔵しているようだ。誰か見てきて、残る3件の「恋愛事件」を教えて~。池田が持っていたはずの新聞の行方も池田自身の日記と併せて気になるところである。
 もっとも、折口の女性との醜聞などという有り得ない(はず)の記事を書いているようでは、記事全体の信憑性も低そうだ。

*1:池田著で翻刻された波多日記昭和12年3月14日の条に「小泉登美子さんの亡くなった知らせ来る」とある。