神保町系オタオタ日記

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小野忠重が勤めた南洋団体連合会

小野忠重昭和16年に勤めていたという南洋団体連合会について、概要を書いておこう。

南洋団体連合会
創立:昭和15年8月
目的:会員団体相互の提携を緊密にし政府との連絡を図り以て我国の南方進展に貢献すること
事業:一.懇談会、研究会等の開催 二.他の関係団体との連絡 三.対南政策又は施設に関する建議請願 四.其他必要なる事項
事務所:東京市麹町区丸ノ内三丁目六番地
参加団体:日本放送協会、日本拓殖協会、東亜経済調査局、同盟通信社、海外鉱業協会、海洋政策研究所、太平洋協会、タイ室東京事務局、台湾南方協会、南洋経済研究所、南洋栽培協会、南洋協会、南洋水産協会、南支調査会、三菱経済研究所
役員:会長 伯爵児玉秀雄(貴族院議員、児玉源太郎の長男)
   理事長 今村武志(錦鶏間祇候*1、元樺太庁長官)
   常務理事 平野英一郎
   理事 飯泉良三(南洋協会常務理事、拓殖大学教授)、子爵井上匡四郎(技術院総裁)、男爵大蔵公望(貴族院議員、東洋協会専務理事、拓殖大学専務理事)、永田秀次郎貴族院議員、拓殖大学学長、東洋協会副会長)、中島宗一(南満洲鉄道(株)参事、東京支社調査室主事兼東亜経済調査局長)、子爵野村益三(貴族院議員、北支開発(株)監事)、郡山智(海外移住組合連合会理事長)、下河邊建二(日産農林工業、南洋企業各(株)社長、南洋栽培協会常務理事)

役員の括弧内は、『第十四版大衆人事録 東京篇』(昭和17年10月)による肩書きである。平野は同人事録に記載がないが、昭和15年8月23日付読売新聞の創立総会に関する記事によると、南洋協会常任参与。「ポール・ケートの東京インターナショナル倶楽部と権無為」(2月4日)に出てくる平野と同一人物だろうか*2

プロレタリア画家の小野は、どういう伝手でこのような団体に勤務することになったのだろうか。

*1:「きんけいのましこう」と読むらしい。

*2:このほか、平野は大正3年12月12日付読売新聞には外交社創刊の雑誌『外交』の主幹、12年6月16日付同紙には国際教育協会理事として、永井柳太郎と支那視察に出発したとの記事がある。