神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

鳶魚のギョギョギョーー昭和7年三田村鳶魚が見た朝鮮の民俗学者・人類学者群像ーー


 戦前の船中読書については、「船内で独歩全集を読む大川周明 - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがある。これとは別の事例が、坂野徹・槇蒼健編著『帝国の視角/死角:〈昭和期〉日本の知とメディア』(青弓社、平成22年12月)の菊地暁「智城の事情ーー近代日本仏教と植民地朝鮮人類学ーー」に載っていた。秋葉隆が大正15年京城帝国大学に赴任するため関釜連絡船に乗っていてたまたま手に取った今村鞆『朝鮮風俗集』(大正3年)を読み、「私に朝鮮民俗の勉強を始めさせた」きっかけになったという話である。出典は、今村の古希記念に刊行された『朝鮮民俗』第3号(朝鮮民俗学会、昭和15年10月)の秋葉「朝鮮風俗集」である。
 三田村鳶魚の日記*1に、この秋葉や今村を含めた朝鮮の著名な民俗学者・人類学者達が登場するので、紹介しておこう。

(昭和七年)
七月二日(土)
京城着、高松氏*2に導かれて竹添町の宅に入る。◯稲葉君山氏を訪ひ、食道園に会談す、今村鞆氏陪す、高松氏主催なり(略)
七月七日(木)
今村氏を訪ひ船の朝鮮外三点を貰ふ、李道衡*3より聞きたるサントウ、パクチヤムヂーは、今日まで不明なりしに義弟に頼み聞合せたるに忽ち知れたり。(略)
七月八日(金)
(略)◯平洞、加藤灌覚氏を訪ふ、京城大学某教授を助けて調査したれども、未発表なればとて話すことを避く。(略)
七月九日(土)
李王職に李能和氏を訪ふ、其指定により師範学校に李煕昇氏を訪ふ、転校せし由(略)◯夜、自元信氏が李千鐘を連れ来り朴僉知の事を聞く、李は興行師なり、同人を頼み、人形及び人形遣の所在を披策せしむ。
七月十日(日)
雨。◯金秀学氏に導かれて崔南善、阿部充家両家を訪ひ、転じて李煕昇氏に至る、不在なり。◯崔氏宅にて多田正知氏に逢ふ、明日、大学の図書閲覧の世話をなすべしとのこと、早速御願申す。
七月十一日(月)
多田正知氏に導かれて京城大学に往き、朴僉知の偶人を見る、総督府文書課より民間信仰三冊貰ふ。◯女子専門学校に李煕昇氏を訪ふ。
七月十二日(火)
京城大学に秋葉隆教授に逢ひ、其世話にて社稷洞四三、金道卿氏を頼み、人形の写生をなす、十一時より六時に至る、写真及び正本の事を頼み、引取る。(略)
七月十三年(水)
放送局に尹教重氏を尋ね、鮎貝房之進 (略)を訪ひ、木偶戯考を借用。◯多田氏は朴僉知筋書、金道卿氏は昨日の画図を持参。(略)
七月十四日(木)
秋葉教授より使价にて、支那人形二点恵与。(略)
七月十六日(土)
(略)◯朝鮮演劇史ヲ多田氏ヘ返済、筋書モ同氏に托シ、秋葉氏ヘ返ス。

 鳶魚は、昭和7年6月から7月にかけて大連、旅順、奉天長春京城を旅行していた。京城では人形芝居の調査をしていたようだ。鳶魚が朝鮮で出会った民俗学者・人類学者等を紹介しておこう。李能和と崔南善は、韓国における草創期の民俗学者として知られる人物である。稲葉君山は、本名岩吉で、経歴は『植民地主義歴史学:そのまなざしが残したもの』(刀水書房、平成16年3月)の寺内威太郎「「満鮮史」研究と稲葉岩吉」に詳しい。内藤湖南に生涯師事し、大正11年内藤の推薦を受け、朝鮮総督府朝鮮史編纂委員会のスタッフに迎えられ、幹事として修史事業を主宰した。大正14年編纂委員会が朝鮮史編修会となると朝鮮総督府修史官に任じられ編修会幹事として修史事業を主宰した。
 多田は、昭和2年東京帝国大学文学部卒業後に京城帝国大学予科教授になっている。鮎貝は、木村誠他編『朝鮮人物事典』(大和書房、平成7年5月)によれば、落合直文実弟閔妃殺害事件に関連し、与謝野鉄幹と共に7カ月程潜伏した人物である。韓国併合後は朝鮮総督府博物館の協議員等を務め、60歳を過ぎてからの著作に9輯12冊の雑攷シリーズがあり、ことに朝鮮漢字の語義や語訓の解明に努めた『俗字攷・俗文攷・借字攷』は高い評価を得ているという。全京秀『韓国人類学の百年』(風響社、平成16年5月)記載の前記『朝鮮民俗』第3号の目次に鮎貝「還暦と厄年」が見える。落合亮・気仙沼ユネスコ協会共編『日韓文化かけ橋の先人鮎貝房之進』(気仙沼市教育委員会、平成11年1月)があるが、未見。
 さて、最も興味深いのが加藤という人物である。『朝鮮人事興信録』(朝鮮人事興信録編纂部、昭和10年4月)から経歴を要約しておこう。

加藤灌覚(朝鮮総督府嘱託)
明治3年9月生まれ、愛知県人
明治27年 時宗西部学林本科専門部卒
明治30年 時宗東部学林専門部講師(宗教史)を嘱託される。
明治32年~35年 東京独逸協会学校と東京帝国大学人類学教室等で独逸語、露語、人類学を研究
明治35年 初めて渡鮮
明治43年 朝鮮語研究の目的で再渡鮮
大正3年~ 朝鮮歴史地図の編纂に関する事務、雑誌『朝鮮』編纂に関する事務、古図書に関する調査事務、支那語翻訳に関する事務、朝鮮慣習調査事務、朝鮮古来の洪水観測に関する事務、朝鮮民族資料調査事務、京城府史編纂委員会委員、民族資料歴史参考品古文籍等の蒐集調査に関する事務、煙草に関する文献その他資料蒐集・調査事務等を嘱託される。
現在 総督官房文書課、同外事課、内務局、学務局学務課、同編輯課、同社会課、京城帝大、専売局、京城電気等の嘱託

 上記のほか、「世界風俗研究の為その足跡は南洋支那に遍く、濠州・ジヤバ・スマトラ・印度支那・印度・支那の各国及び満洲・露領シベリヤ・蒙古等を巡遊す」ともある。なんか凄そうなフィールド・ワーカーである。前記全著には敗戦時における京城の施政記念館館長として出てくるものの、まだ本格的な研究はなされていなそうな人物だ。
 鳶魚の朝鮮における人形芝居の調査については、『鳶魚縦筆』(桜井書店、昭和17年5月)の「朴僉知の教へる人形製作過程」に書かれていた。これによると、朝鮮に古い傀儡の様式や操法が残っていないかと思っていたとところ、満洲で朝鮮に残るパクチョンジイ(朴僉知)という偶人戯のことを聞き、朝鮮で調査する気になったらしい。「朴僉知」は実在の人物ではなく、朝鮮に残る偶人戯の演目であった。
 また、多田教授から土俗研究室*4が偶人戯の標本数点を収存していると聞き見せてもらったり、標本の主管者である秋葉教授が山台戯という仮面劇の研究に努めている関係で偶人戯の筋書を手記した1冊を持っていて、それを貸与してもらったとある。なお、不思議なことに、鮎貝は磯貝という名前で出てくる。
 鳶魚は、人形芝居の起源を求めて朝鮮で民俗学者・人類学者達に出会った。鳶魚がギョギョギョとなるような個性的な研究者達だっただろう。
 

*1:三田村鳶魚全集』26巻(中央公論社、昭和52年5月)

*2:鳶魚の妻八重の弟

*3:鳶魚日記昭和7年6月29日の条に「満洲中央銀行に李道衡を問ふ」と出てくる。

*4:『帝国日本の学知』第3巻(岩波書店、平成18年5月)の全京秀「植民地の帝国大学における人類学的研究ーー京城帝国大学台北帝国大学の比較」によると、昭和7年京城帝国大学に「朝鮮土俗参考品陳列室」が作られ、秋葉教授らが蒐集した面、土器、陶器、民間什器等約1千点が陳列されることになったという。