神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

服部之總は見たーーその時今和次郎の考現学が誕生したーー

昨日紹介した松尾章一『歴史家服部之總』中の服部之總の日記には、まだまだ驚くべき記述が幾つかある。たとえば、次のような記述である。

(大正十四年)
三月七日 (略)今さんとも打合わせて一緒に本処[ママ]へ帰る。セツルメント表玄関のマークを作ってもらったのだ。御礼にらんめで会食。(略)
三月二十七日 正午早大今氏を訪ねる(略)
三月二十九日 (略)夜今さん見えて、八時三十分、早大建築家の関西見学団より一汽車早めに発つ。車中殆ど話し通す。調査所を作る夢みたいな話などに熱したり。
三月三十一日 吉田で今さんと別れ、淡を訪る。(略)
五月九日(土曜日) 二時迄研究室。三時前築地本願寺松村氏から金四十円受取りにゆく。帰途今さん銀座のストーリートサーヴェイ中を発見、婦人公論の嘱によって吉田ケン[ママ]吉氏と二人でやってるのだといふ。五時頃から社の連中も手伝にきて済んで後飛入の僕もいれて牛皿をつゝく、夜は今さんの家でねた。(略)
六月十日。夜セツルメント懇親会。すぐすみ、今さんと十二時頃迄ブラツク。「無機物の群集と人間群集の話」(略)
六月十九日 (略)婦人公論に今氏の調査出援者として我等の名あらず。ふんがいにたえず。
七月四日 (略)銀座の大阪ずし。吉田謙ちゃんとあふ。(略)
七月二十二日 (略)吉祥寺に今氏をたづね、不在で早大へゆく。敷金の算段だが、話すや祝して五十円贈られた。二時半別れて帰宅(略)
七月二十五日 (略)午後セツルメント。今氏と落会ひ、まってゝくれた内村と三人で診療所、京樽でドクター達と乾盃、あと今氏と清僕等で食事し(略)

松尾著によると、服部はこの年3月に東京帝国大学文学部社会学科を卒業後、研究室の副手として大学に残っていた。また、大正13年に創立された東京帝国大学セツルメントの指導者で、セツルメント・ハウスの土地を見つけて早稲田大学教授の今に無報酬で設計させたのは服部だったという。この日記は大正14年における今の動向が分かる貴重な資料である。特に5月9日、後に『婦人公論』7月号に「一九二五年初夏東京銀座街風俗記録」として発表される銀座の街頭観察を目撃するだけでなく、調査の手助けもしていたわけだ。『今和次郎採集講義』(青幻舎、平成23年11月)118頁に調査メンバーに関するメモ紙の写真が載っているが、確かに服部の名が見える。大正14年の段階ではまだ「考現学」と名付けられてはいないようだが、服部は考現学の実質的な誕生に立ち会っていたのだ。

今和次郎 採集講義

今和次郎 採集講義