神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

日高みほが創った?朝鮮文人協会と李光洙

李光洙(イ・グァンス)という文学者がいた。韓国の夏目漱石に当たる文学者だったという。わしは作品も読んでなくて、ほとんど知らないのだが、三村三郎『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』(日猶関係研究会、昭和28年8月)に名前が出てきて初めて知った人物である。次のような一節。

昭和十五、六年ごろだったか、倉田百三氏が窪田雅章君を連れて満洲、北支へ行く途中、京城に立ち寄られ筆者が案内して南総督のところえ行く時、街角で(日高みほーー引用者注)女史に出会い、一緒に総督府から李王職に行き朝鮮雅楽を見せてもらつた。その翌日林房雄氏が鎌倉からやつてきた。早速筆者の関係していた侍天教会堂で女史と共に旧一進会(東学党)の子弟や朝鮮、左翼右翼関係の尖鋭分子を集めて林氏を中心に座談会を開いた。左翼系からは印貞植、車載貞氏らが見え、右翼系からは玄永□*1、李碩奎、南延国等若い文人たちが集り盛会だつた。この席上、女史から朝鮮文人協会結成の提案があり、翌々日あたり女史の肝入りで明治町の大きなグリルで倉田百三林房雄両氏を囲む朝鮮文壇人の懇親会を開いた。半島文壇の大御所李光洙氏を引張り出して、とうとう、これを機会に「朝鮮文人協会」の結成へと持ち運んだのであつたが、それは僅かに三、四日の間の出来ごとでした。朝鮮文人協会はこのように女史一流の放れわざによつて誕生し、その後も女史の絶えざる助言によつて成長した。のち同協会は文壇統一の綜合機関誌を持ち戦時下の半島に何がしかの貢献ができたのも全く女史の賜だつたといえる。(略)

その後、李について中公新書から波田野節子『李光洙ーー韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』(平成27年6月)が出た。積ん読だったが、ようやく読んでみると、李は『わが告白』に昭和14年10月頃として、

金文輯という人物が私を訪ねてきた。彼は当時たくさんの雑誌に評論を書いていた。自分は[朝鮮総督府のーー波田野注]学務局長の塩原[時三郎]と親しいと言い、いま韓国の文人たちは当局から非常に目を付けられているから、文人団体を作って連盟に加入しなければ、きっと大弾圧が来る、文人団体さえ作れば塩原が後援する、そう言って私の意向を聞くので、やろうと答えた。これが私の第二の対日協力である

と書いているという。また、協会は14年10月29日結成で、李が会長、塩原が名誉総裁になったが、一ヵ月半後に李は辞任したという。三村の記述の極一部しか裏付けられない。また、Wikipediaの「朝鮮文人協会」に出てくる関係者は三村のそれとほとんど重ならない。ただ、「田澤耕『〈辞書屋〉列伝』(中公新書)で解けた村井二郎の謎」で見たように三村の著書は割合裏付けが取れるので、近代朝鮮文学史に関心のある人は、調べてみてください。
参考:日高みほについては、「川上初枝=若林初枝=内山若枝=日高みほの年譜」などを参照されたい。

*1:□は原文では玄言玄の下に又という字だが、正しくは燮で、玄永燮のようだ。