マチマチ書店が京都マルイに出店*1する前、四条烏丸近くだったかで古本市をやったことがあった。津田青楓『画家の生活日記』(弘文堂書房、大正13年6月)は、その時買ったものである。長らく積ん読だったが、読んだら「念写少年」が出てきた(*_*)
妻の留守中日記(大正十二年)
五月五日
朝、朝鮮より十一時東京駅着。(略)
五月十五日
(略)
夜田中を呼びにやつて同行して、朝鮮の鈴木氏の宿を訪ふ。未だ到着せずとの事。
(略)
五月二十日
(略)
鈴木氏来訪。田中来る。中食を共にす。念写青年のことにて相談あり。
(略)
五月二十九日
(略)
昼、朝鮮にてたのまれたる念写少年を東京駅に迎ひに行く。来たらず。家に帰れば電報来てあり明日になつたとのこと。
(略)
五月三十日
(略)
念写少年を田中に駅へ迎ひに出しておきたるに駅にて会はず、後になつて来たり、門司にて一緒になつた人の家へ今夜は行つて泊るとて出て行つたる由。
(略)
六月四日
(略)
念写少年の親戚より手紙来たる。
六月十一日
(略)
朝鮮三上の父より電報。
(略)
六月十九日
(略)
午後三上少年及同人叔父来訪。
『背く画家津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』(芸艸堂、令和2年2月)の年譜によると、大正12年4月青楓は弟子の田中冬心とともに、朝鮮、満洲を旅行し、京城高等商業学校校長の鈴木孫彦宅に滞在している。日記に出てくる「田中」や「鈴木氏」は、この二人だろう。念写少年三上の詳細は不明。「念写」で一旗揚げようと朝鮮から出てきた少年を親戚の叔父が連れ戻しに来たというところだろうか。ただ、「朝鮮にてたのまれたる」や鈴木校長からの「相談」もあるので、家出ではなさそうだ。青楓は何度も「念写少年」(1回「念写青年」を使用)と書いているので、もしかしたら朝鮮で少年による念写を実見したのかもしれない。千里眼事件から相当の年数が経っているが、念写の人気がまだあったのだろうか。
なお、大正12年の日記には、「萬鐵五郎の第一回円鳥会展と星製薬 - 神保町系オタオタ日記」で言及した星製薬で開催された第1回円鳥会展も出てくる。
六月六日
(略)
上野竹の台の中央美術展覧会を見に行く。序に星製薬会社にある円鳥会も見る。(略)