神保町系オタオタ日記

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『博覧』(龍谷ミュージアム)第4章「平瀬貝類博物館」への補足ーー京都にあったもう一つの博物会、京都府師範学校博物会ーー


 龍谷大学龍谷ミュージアムで大好評開催中の「博物ーー近代京都の集め見せる力ーー初期京都博覧会・西本願寺蒐覧会・仏教児童博物館・平瀬貝類博物館」も11月23日までの会期の終了が近づいてきました。他館への巡回はないので、お見逃しなく。仏教児童博物館*1や平瀬貝類博物館*2についてブログで紹介したことがある私には、特に楽しめる展覧会でした。将来「伝説の展覧会」になるのは、必至である。図録も豪華な内容で、和田秀寿学芸員一人で執筆したようだ。何とも博覧強記の逸材である。 
 さて、図録第4章「平瀬貝類博物館」に、大正2年に平瀬貝類博物館を創立する平瀬與一郎について、京都博物会の会員や会幹(幹事)であったことが記載されている。同会は、山本亡羊の物産会(山本読書室物産会)の流れを汲むもので、明治28年京都本草会から改称されたという。
 実は、明治末期の京都にはもう一つの博物会があって、與一郎も所属していた。これは、令和2年3月大阪古書会館の即売会で唯書房から入手した『博物雑誌』創刊号(京都府師範学校博物会、明治40年4月)の「本会録事」に記載されている。これによると、京都府師範学校博物会の会長は鈴木光愛(同校校長)で、名誉会員として牧野富太郎、三宅驥一、武田久吉、平瀬作五郎*3らのほか、與一郎の名前も載っている。会員には約320人が挙がっている。
 與一郎は、名前を挙げた名誉会員に比べると学歴や実績が劣るように見える。しかし、『博物雑誌』創刊の3か月前の明治40年1月に日本初の貝類研究誌『介類雑誌』(平瀬介館)を創刊しているし、京都博物会での活動を通じて京都府師範学校博物会の関係者によく知られた存在であったのだろう。『博物雑誌』1巻2号、明治40年9月の「著述」には、與一郎を「名ある介類学者なり」と紹介し、『介類雑誌』の要目も掲載されている。

 與一郎は『博物雑誌』創刊号及び2号には執筆していない。両号に執筆している人物としては、岸田久吉が注目される。この岸田は、ネットで読める下稲葉さやか・安田雅俊「日本哺乳動物学会と2人の哺乳類学者、黒田長禮と岸田久吉」によれば、明治21年舞鶴市生まれ、37年京都府師範学校本科第一部入学、41年卒業なので、同誌執筆時は同校の生徒だったことになる。その後、大正10年に東大理学部動物学科選科を卒業し、12年日本哺乳動物学会の創設メンバーに参加している。
 『博物雑誌』は、国会図書館サーチでヒットしないし、京都府師範学校の後身である京都教育大学の附属図書館にもない。貴重な雑誌を「たにまち月いち古書即売会」で見つけたようだ。