神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

東京医学校でお雇い外国人ワグネルに学んだ佐野誉の『回想録』(昭和12年)ーー京都まちなか古本市の掘り出し物ーー


 昨年10月に開催された京都古書会館のまちなか古本市は初日が四天王寺秋の大古本まつりと重なった。両方回る元気はないので、初日は四天王寺、2日目は京都古書会館にした。京都古書会館では、2日目のためか1冊だけ購入。500円均一だったかで、佐野實『佐野誉回想録』(佐野實、昭和12年4月)を。鉛筆による線引きが多く、大阪古書組合入札用紙に「線消し要」とあるものの、結局線を消さないまま均一に回したようだ。
 著者兼発行人の佐野實は神戸市の佐野病院の2代目院長で、本書は初代院長誉の回想談を記録したものである。実業家や医師の伝記は、文学者や出版人のそれと比べると面白くはないが、本書には「ドクトル・ワグナー教師(理学)送別会」の写真が載っていたので、「ワグネルだ!」と購入。ワグネルは、お雇い外国人で、京都府立図書館の横の公園に記念碑が建ってますね。

 意外と貴重な本のようで、国会図書館サーチでは国会図書館日本医師会医学図書館のみヒットする。内容も面白かった。ただ、昭和10年における誉80歳の誕生日に聞き取った回想なので、記憶違いも多そうだ。たとえば、明治8年に入学した東京医学校(現在の東京大学医学部)時代の記述。

 ワグナー教師
 私の記憶に最も鮮明な印象を残してゐるのはワグナー先生である。先生は地理の受持であつた。勿論ドイツ人であるが、夙くから東洋の事物殊に支那の陶器に深い興味を有ち、その研究のため支那渡航せんとした途中、暴風雨に逢ふて漂流し、終に我が福岡に漂着し、土地の或る富豪の家に寄食してゐる間、その家の息子にドイツ語を教へてゐた人であるが、大学東校が設立される時、政府が之を呼出して教師に任命したといふ数奇の半生を有つた人であつた。
 私は先生から、この地球は円いものであるとか、西へ/\と行けば又元の位置に帰るものであるとかいふやうな事を聞いて、実に非常な感動を受けたものである。(略)

 某先生の蔵書*1からいただいた『近代窯業の父ゴットフリート・ワグネルと万国博覧会』(愛知県陶磁資料館、平成16年3月)の年譜によれば、ワグネルは明治5年大学南校から大学東校(のち東京医学校)に転じ物理学と化学を教えた。また、来日の経緯は、アメリカ人トーマス・ウォルシュ、ジョン・ウォルシュの求めに応じ、石鹸製造所設立のため、明治元年5月に長崎に来たものである。その後、3年に佐賀藩の委嘱で有田で技術指導を行い、同年10月から大学南校予科教師になっている。随分誉の回想と異なっている。なお、前記写真のキャプションに「送別会」「明治九年」とあるのは、年譜によれば、明治9年4月フィラデルフィア万国博覧会事務嘱託として渡航したものである。
 その他事実確認はしていないが、興味深い記述としては、次のようなものがある。
・祖先の地は静岡県富士郡猫澤村で、誉の父が自らの将来について相談した相手は、遠縁に当たる隣村の清野一角(正しくは一學)で、清野謙二(正しくは謙次)の曾祖父(正しくは祖父)に当たる。
・予備門(東京医学校予科)に入るにはドイツ語が必要だったので司馬凌海の塾に入り、後藤新平と親しくなった。勉強が終わると、毎日後藤と角力をとって遊んだ。
・予備門時代には森鴎外と同級で、殊に仲がよかった。2人とも体操嫌いで体操の時間になると2人で戸棚の中に隠れ、いつの間にかグウグウ寝てしまい、夕食の拍子木がなる音で目を覚まし、ゴソゴソ這い出して食堂へ行った。
明治14年の結婚後、東京外国語学校校長の今村有隣宅に世話になったが、今村新吉の父である。

 ネットで読める「佐野病院125周年記念号」によると、佐野病院は4代目院長により続いており、誉の略歴も掲載されている。本回想録の目次を挙げておく。装幀の鈴木清一は戦後公職追放となった洋画家で、10年前に回顧展が開催された。→「戦争責任を負い美術画壇から去った 洋画家・鈴木清一の回顧展 | 神戸っ子

*1:令和2年6月におさそいいただいて、蔵書を数冊いただいた。近所の吉永さんも来られていた。吉永さんは、Zoomの会議があるとのことで、一旦顔を出した後家に戻り会議後に再び来たらしいが、私は帰った後であった_