神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

帝国日本の地質屋流転ーー地質学者永井浩三はパラオ熱帯生物研究所を訪問したかーー

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 ここにシルヴァン書房から300円で買った葉書がある。写真のように昭和7年1月6日付けで「赤ん坊の居る窓辺の風景」が描かれた拙い絵である。これも誰も買いそうもない葉書である。私は、発信者の住所が「奉天満鉄附属地」とあって満鉄の関係者らしいことと、宛名が大分の巴妍男であることから買ってみた。発信者の永井は未知の人物だが、巴の方は趣味人のネットワークに属したらしい人として知っていた。久保盛丸から巴宛の葉書を持っている。どういう人物なのかは、さっぱり不明である。
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 永井の方は、グーグルブックスで読める「永井浩三教授の略歴と業績」『愛媛大学紀要:自然科学Dシリーズ(地学)』7巻1号,昭和47年12月で判明した。戦前の分を要約する*1と、

永井浩三
明治40年 現愛媛県宇和島市
昭和4年3月 東京高等師範学校卒
昭和4年4月~6年3月 滋賀県師範学校教諭
昭和6年4月~12年3月 南満洲鉄道株式会社立奉天浪速高等女学校教諭
昭和15年3月 東北帝国大学理学部地質学古生物学科卒。在学中にパラオ島へ旅行
昭和15年4月~12月 西樺太鉱業株式会社技手
昭和15年12月~17年3月 東亜研究所嘱託
昭和17年11月 現職のまま陸軍司政官
昭和18年2月 ジャワ軍政監部総務部調査室付

 葉書の出された昭和7年当時、永井は奉天浪速高等女学校の教諭であった。また、久保は宇和島の多賀神社の宮司だったので、永井と久保は同郷ということになる。
 『東北帝国大学一覧』昭和12年版を見ると、永井はこの年理学部地質学古生物学教室に入学。古生物学講座担任は矢部長克教授である。坂野徹『〈島〉の科学者:パラオ熱帯生物研究所と帝国日本の南洋研究』(勁草書房、令和元年6月)によれば、パラオ研の研究員には東北帝国大学生物学教室出身者が多かったが、矢部率いる地質学古生物学教室もサンゴ(礁)研究の拠点だった。また、同教室助教授の田山利三郎は、パラオ研の研究員ではなかったが臨時の研究嘱託として研究所の立ち上げに協力したことがあり、当時は南洋庁熱帯産業研究所技師と兼任であった。田山は宮城県師範学校東京高等師範学校の卒業後に教員を経て東北帝国大学に進学している。永井と田山は類似した経歴の持ち主で、話は合っただろう。ただし、坂野著には田山は「一年の大半をミクロネシア各地で過ごす生活を送った」とあるので、大学で会う機会はほとんど無かったかもしれない。
 地質学古生物学教室の地質学講座担任の教授は青木廉三郎であった。永井の専門から言うと、この人が指導教官だっただろう。この青木もパラオと関係があった。坂野著によれば、大正4年3月東京帝国大学大学院生だった青木は新占領地となった南洋諸島で地質調査を行っていた。
 一方、理学部生物学教室にはパラオ研の所長畑井新喜司教授がいた。また、同教室出身の阿刀田研二がパラオ研に所長の代理として派遣されていた。
 こうした東北帝国大学理学部とパラオとの深い関係から、永井はパラオへフィールドワークに行ったのだろう。そして、永井は大学の先輩達のいるパラオ研や熱帯産業研究所を訪問したはずである。奉天から大分宛の1枚の葉書から、パラオ熱帯生物研究所へ到達してしまった。

*1:グーグルブックスは誤変換が多く、誤りがあるかもしれないので注意