神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

賀川豊彦の同窓岡本利吉による神都教学館ーー愛鷹山から横浜の純真学園を経て宇治山田へーー

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 平安蚤の市で@pieinthesky氏(「パイ・イン・ザ・スカイ」と読む)から、『神都教学館と皇民道場』を入手。奥付はないが、神都教学館から昭和18年*1に発行されたと思われる。所蔵する図書館は、皆無か。神都教学館は、財団法人純真学園創立者である岡本利吉が昭和14年三重県宇治山田市に創設した学校である。岡本は、知らない人物であった。一応、Wikipediaにも立項されている。
 『日本アナキズム運動人名事典』から岡本の経歴を要約すると、明治18年高知市生まれ、別名普意識。企業立憲協会(大正8年)、有限責任購買組合共働社(10年12月)、有限責任信用組合労働金庫(11年3月)、連合機関消費組合連盟(同年5月)の創設を経て、昭和2年裾野市に農村青年共働学校を設立。9年現横浜市に移転し、美愛郷共働農場と純真学園を開設するが、12年閉鎖。軍の協力のもと宇治山田市に神都教学館を設立し、占領地の現地工作に当たる指導者を養成。戦後、民生館と改称。33年には世界語ボアー・ボム語を完成、38年没。
 社会運動家としては、賀川豊彦と類似した活動を行っている。それだけではなく、角石寿一『先駆者普意識:岡本利吉の生涯』(民生館、昭和52年7月)の唐沢憲一郎「岡本先生に関する断章」によると、岡本は、賀川や新居格と徳島中学で同じ頃学んだ学友だったという。しかし、共通点は多いが、岡本の方は賀川と違ってすっかり忘れられた存在だろう。
 神都教学館は、関西急行鉄道終点の宇治山田駅から徒歩10分。5万坪の敷地に建坪6百、3階建て、別館に建坪530の皇民道場もあった。原武史『「線」の思考:鉄道と宗教と天皇と』(新潮社、令和2年10月)の世界ですね。
 経営主体の純真学園の役員名簿を挙げておく。
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 確かに「軍の協力」があったようで、教学館館長や参与に軍人が就任している。後援世話人の一人片岡安とは親しかったらしい。理事長大蔵公望の日記は刊行されていて、「戦時下の心霊実験と小田秀人 - 神保町系オタオタ日記」などで紹介したところである。日記の中に岡本が出てきたはずだが、記憶にはない。その他、前記岡本の伝記には、関係者として注目すべき人物が色々出てくるので紹介しておこう。
昭和2年7月4日駿河台カフエー・ブラジルで開かれた農村青年共働学校創立相談会の出席者は、下中弥三郎、新居、岡本など。愛鷹山の中腹に開設された学校の講師に、土田杏村、村松正俊、権藤成卿木村毅奥むめおなど。
・岡本に「貴方の教学は、日本の古神道の精神と一致する」と推奨したのは、室井常盤。室井は南会津の田出宇賀神社の社司で、国学院大学の田中義能により神道を専攻し、長く台湾神社に奉仕した神官だという。
・横浜本牧に大黒灸の看板を掲げ、観相学による相談にも応じる大田脩方は、彫刻の余技を持ち、岡本が昭和12年創設した天祖神道奉体会のために御神板を彫った。
・神都教学館の講師に安岡正篤(儒教一般)、桜沢如一(食養法)の名がある。ここで、桜沢と出会うとは、思わなかった。
 岡本は、戦後「極端な国家主義を鼓吹」として公職追放。下中*2や桜沢*3など関係者の多くも、該当事項は様々だが、公職追放となっている。しかし、世界語ボアー・ボムの発表会の発起人代表は下中で、大蔵も発起人の一人なので戦前の人脈は戦後も続いていたことになる。
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*1:純真学園の機関誌『人間完成』(昭和10年5月創刊)は14年8月号で終刊。神都教学館から『神道教学』が創刊され、その後昭和18年1月号から『皇民の友』に改題するも、同年12月号で廃刊。同誌の広告が『神都教学館と皇民道場』の裏表紙に出ている。また、皇民道場の落成が同年6月である。

*2:オカルティストとしての下中彌三郎 - 神保町系オタオタ日記」参照

*3:情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎 - 神保町系オタオタ日記」参照