神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

カフェープランタンで天狗倶楽部と喧嘩した永井荷風

大河ドラマ「いだてん」に押川春浪らの天狗倶楽部の面々が登場し、話題になっているらしい。テレビを持ってないので、どんな感じなのか分からないがバンカラの雰囲気はうまく出ているだろうか。天狗倶楽部については、「押川春浪率いる天狗倶楽部が立てた天狗塚を訪れる日夏耿之助」でも言及したが、そこで紹介した横田順彌『快絶壮遊[天狗倶楽部]ーー明治バンカラ交遊録ーー』が北原尚彦氏の解説付きで文庫化(ハヤカワ文庫JA)されたので、是非とも読んでいただきたい。さて、春浪は大正3年11月没、14年に天狗倶楽部の碑が建てられた。碑を建立するための寄付金が募集されたが、その報に接した人物が在りし日の春浪を追憶し、日記に記載した。『断腸亭日乗』の永井荷風である。

(大正十四年)
正月十六日。故押川春浪の友人数名発起人となり、墓碑建立の寄附金を募集す。そも/\予の初めて春浪と相識りしは明治三十二三年の頃、生田葵山が下宿せし三番町の立身館なり。春浪その頃神楽坂のビーヤホール某亭の女お亀といふものと親しかりき。(略)余が外遊中春浪子はおかめを妻とし、女子を挙げたり。余帰朝の後日吉町のカツフエープランタンにて、生田葵山、井上唖々、妓八重次、有楽座女優小泉紫影等と、観劇の帰途茶を喫しゐたりしに、春浪別の卓子にて余等の知らざる壮士風の男二三人と酒を飲みゐたりしにが、何か気にさはりしことありしと見え、唖々子に喧嘩を吹きかけし故、一同そこ/\にプランタンを逃げ出したり。其夜春浪余等一同待合某亭に在りと思ひ、二三人の壮士を引連れ、其家に乱入し、器物戸障子を破壊し、三十間堀の警察署に拘引せられたり。春浪は暴飲の果遂に発狂し、二三年ならずして死亡せしなり。余はプランタンの事件ありてより断然交を絶ちたれば、死亡*1の年月も知らず。

荷風も人の好き嫌いがはっきりしていたようで、大野茂男『荷風日記研究』(笠間書院、昭和51年3月)の「人間関係から見た断腸亭日乗」には、荷風と「はじめよく、のち悪くなったもの」として、

与謝野寛・佐藤春夫押川春浪生田葵山市川左団次小山内薫・永井智子・永井威三郎・杵屋五臾・日高基裕・猪場毅・平井程一・岡崎えん・中山豊三

を挙げている。春浪だけが絶交されたわけではなかったのだ*2。なお、大野によると春浪と荷風明治29年創立の巌谷小波を中心とする木曜会で知り合ったようだ。
以上、春浪らと荷風の喧嘩について紹介したが、もう一人天狗倶楽部と喧嘩をしたという人物を発見した。土田杏村『妻に與へた土田杏村の手紙』(第一書房昭和16年12月)に次のようにあった。

(略)東京でも不良少年といはれたこともありますからね。(略)近頃は君子になつておつつきはらひ、といふ程でもないですがね。料理屋の二階で例の天狗倶楽部の連中と喧嘩をしたり、竹刀をぶちこんでたすきをかけて電車通をあるいて査公にしかられたり(略)からだはよわいし力もないが随分不良少年ぶりを発揮して、お坊ッチャンを笑はれたのですからね。(略)
     (大正五年)九月十五日夜 杏
千代子さま

*1:「亡」は実際はLに人

*2:横田順彌會津信吾『快男児押川春浪』(徳間文庫、平成3年5月)が引用している安藤更生『銀座細見』中の生田の叙述によると、「荷風君と春浪君とは永い間の仲善い交際が暫時途絶えた。晩年になっては無論融和した」という。