神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

海城が生んだ怪人と快人

スメラ学塾を創設した小島威彦は、海城中学校出身者だった。小島の自伝『百年目にあけた玉手箱』第一巻によると、

僕の通う海城中学は日露戦争の頃では、海軍の予備門のような学校だったが、日比谷公園の裏に府立一中と並んで、徳川期の大名屋敷の門をそのまま使用している小さな学校だった。校長は海軍中将吉見乾海で、立派な顎鬚を貯えた威厳にみちた堂々たる人物だった。

海城中学校は、戦後新制海城中学校、新制海城高等学校となる。そして、海城高等学校は一人の快人を生み出している。その人は、ブログで次のように回想している。

私が行ったのは海城高校だが、今と違って、進学校ながら東大進学者は年に五、六人だった。だから滑り止め校で、私は当時東大進学者の多かった県立浦和高校に落ちてここへ行ったのである。
元は海軍学校で、江藤淳や小和田雅子の親戚の江頭家がオーナーだった。だから気風も荒く、体育教師が妙な権力を持っており、雰囲気は野蛮だった。

この人は、芥川賞候補作家にして、××塾の塾長であるあの人である。

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『図書』11月号に『書棚と平台』の著者柴野京子さんによる「日常は本棚に宿る」。日本における一般家具としての本棚の歴史を探る苦労話が書かれていて、

ままよと国会図書館レファレンスカウンターに相談して、「ごみ箱の製造年に関するお問い合わせ以来の難問です」と言われたこともある。

とあった。国会図書館のレファレンスカウンターもご苦労様だが、ごみ箱の製造年に関する問い合わせって、どんな質問で、どう回答したのだろうか?

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野村喜和夫萩原朔太郎』(中公選書)が出るようだが、先にyukunokiさんに読んでもらってから、どうするか決めるか。

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紀田順一郎氏が高橋輝次『ぼくの古本探検記』(大散歩通信社)を紹介している(装画は林哲夫)。→http://plus.harenet.ne.jp/~kida/topcontents/news/2011/110301/index.html