神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大陸講談社の『ますらを』と満洲雑誌社の『満洲良男』

西原和海氏の論考「関東軍の慰問雑誌『満洲良男』と『ますらを』」『彷書月刊』平成20年8月号によると、昭和13年3月頃関東軍司令部により慰問雑誌『満洲良男』創刊。昭和15年5月頃大陸講談社から『ますらを』と改題して刊行。更に、『満洲良男』と旧誌名に復して満洲雑誌社から刊行されたという。

これに補足すれば、『満洲年鑑』によると、『ますらを』は昭和15年1月26日発行許可、同年5月創刊。
菊地康雄「雑誌『満洲良男』のこと−わが編集者一年生の記−」『本の手帖』5巻6号、昭和40年8月*1によれば、満洲雑誌社は、講談社を飛び出した野間清三(野間清治の甥)、鮫島国隆、桜庭政雄によって創立。関東軍報道班長だった長谷川宇一の意向を受け、『満洲良男』の発行を引き受けるようになったという。この長谷川はのちに、財団法人満洲開拓読書協会に関与する軍人でもある。大陸講談社は、満洲雑誌社東京支社にいた野間が別看板として創立したものという。また、のちに、同社の副社長は、甘粕正彦社長の甥*2清野剛が務め、鮫島業務局長、桜庭編集局長を更迭したという*3満洲の闇は深い。

満洲良男』はあきつ書店がいい値段を付けている。復刻も総目次もなさそうである。太宰治の「奇縁」が154号、昭和19年8月に載っているらしいが、全集でも未確認とされている。この号が見つかれば、相当の値段であろう。このほか、大久保康雄の作品が『ますらを』の方に載っているようだ。

(参考)『日本紳士録』、『大衆人事録』、『出版人物事典』などによると、
・野間は昭和7年講談社入社、10年再入社。父親は誰だ?
・鮫島は明治40年2月生、昭和5年早大文学部卒。同年講談社入社。48年日本教育テレビ(現全国朝日放送)専務取締役、54年テレビ朝日映像(株)社長。平成11年1月16日没。
・桜庭は明治41年2月4日生、昭和6年日大経済学部卒。同年講談社入社。21年6月、熊谷寛(明治36年生、大正14年講談社入社、昭和50年没)とともにロマンス社を設立し、副社長に就任。26年5月東西南北社を設立し、社長に就任。
・長谷川は明治31年2月生。陸士31期、昭和6年4月〜9年3月東京帝国大学文学部哲学科へ派遣。15年12月関東軍報道部長兼参謀、20年3月大佐。48年10月没。
・以上のほか、西原氏が名前をあげている人物の講談社入社年は、『ますらを』編輯人宮地博明(昭和4年)・発行人諏沢日出男(昭和2年)、『満洲良男』編輯人青木公平(昭和8年)・発行人小林隆治(昭和3年)である。講談社の闇も深い、というのは冗談。

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誰ぞの様子がおかしい。←心配して損した。

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『古書の森逍遥』は工作舎のホームページで5月刊行予定になっている。今、「初校ゲラのチェック」をされているようなので、無事に出そうである。楽しみ。

*1:『雑誌新聞文献事典』に参考文献として出てた。

*2:佐野眞一甘粕正彦 乱心の曠野 』には、甘粕の遠縁で満洲雑誌社の社長とある。また、旧制弘前高校で太宰と同期だったという。

*3:もう一人の満洲雑誌社創立者である野間は、路線の違いからその前に同社を去っていた。