神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

風呂敷包みを一つだけ抱えて満洲から引き揚げてきた柚木馨満洲国新京法政大学教授

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家の中に饅頭本(追悼本)が山ほどあって困るが、『偲び草 柚木馨先生を憶う』(かおる会、昭和42年5月)もそんな1冊。臨川書店のバーゲンセールで購入したか。柚木の経歴は、

明治35年4月 舞鶴
大正11年3月 第三高等学校文科甲類卒業
大正14年3月 京都帝国大学法学部法律科卒業
昭和10年8月 神戸商業大学教授
昭和15年3月 願に依り神戸商業大学教授を免ぜらる
昭和15年4月 満洲帝国新京法政大学教授
昭和20年8月19日 満洲帝国消滅に伴い自然退官す
昭和21年8月 内地に帰還

戦後は、神戸大学教授、学長を務め、昭和40年11月逝去。三高・京大出身者は好みではあるが、文学部でなく法学部なのがやや残念。しかし、満洲にいた経歴があるので買ってみた。昭和20年8月19日の「満洲帝国消滅に伴い自然退官」は、味わい深い。神戸商業大学を辞め、満洲に渡った経緯はよく分からない。万歳規矩楼「柚木君のこと」には、次のようにある。

(略)その頃僕は満洲国司法部の民事司長をしていた。柚木君は満洲国司法部の直轄下にある司法部法学校の法学部長で来満されたのであるが、各部省から満洲の文教部を通じてこの話がきまったらしく司法部にいた僕も柚木君から同君の渡満直前にいただいた手紙によって初めてそのことを知ったわけであった。司法部としてはこの法学部長のポストに他の人を擬していたので柚木君が突然渡満して来た時は一寸とまどった形で若干のごたごたがあったが何とか無事におさまったことを覚えている。(略)

「司法部法学校」は昭和14年に新京法政大学に昇格しているので、同大学の誤りと思われる。根回しが十分できてなかったようで、突然来られた方もビックリしただろうが、妻と子供2人を連れて渡ってきた柚木が一番驚いただろう。
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目次の一部を挙げておく。有斐閣の江草四郎の名があるが、柚木とは同じ三高出身*1で親しく、戦前・戦後と柚木の著作を多数刊行している。我妻栄「柚木君の霊に」に、「来年の五月頃あなたをある重要な地位に迎える動きがあることを耳にしたこともありますが、それが実現しなくなったことも残念」とある。昭和41年5月に色川幸太郎が最高裁判事に就任しているので、柚木はおそらく最高裁判事の候補だったのだろう。古林喜楽「故柚木学長追悼のことば」によれば、終戦ののち風呂敷一つだけかついだ惨めな姿で引き揚げてきたという。風呂敷包みの中には、六法全書が入っていた。

*1:江草は、大正10年3月第三高等学校第一部甲類卒業