島田謹二の自伝「この道あの道」に、大正8年に入学した東京外国語学校英語学科時代のこととして、
特に仏語学科の連中は、隣の教室にいるので親しかった。常連は川村重和とか、安藤更生とかである。(略)安藤は後年美術史家として名をあげたが、そのころはもっと文学青年のハシリめいた感じの悪童で、人の特色を見抜いて初対面からからかう。親父は早稲田大学でフランス語を教えているから、いま売り出しの詩人なんて大抵知っているぜ、謹ちゃん、会いたいなら連れていってやろうかと気がるに一人で合点して、小石川駕籠町の西条八十邸にひっぱっていった。これが生き身の詩人なるものにお目にかかったはじめである。
とある。
安藤更生の父忠義は、明治から大正にかけて早稲田大学でフランス語の教授を務め、大正9年6月没。
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今週の黒岩さんの書評は、原克『美女と機械 健康と美の大衆文化史』(河出書房新社)でした。