島本久恵『花と松柏』に中山太郎が出てきた。
そしてなお納得の行くように、日露戦後の不況からの成行きで、河井*1、窪田(空穂)、中山(丙子)その他を手始めに羽仁編集長も罷免、間もなく新聞も消えて行ったあらましを言い、
「ところで僕は詩、窪田は歌、中山は民俗学だから笑って袂を分かって、それぞれの領野に本腰をつけてよかったのだが(略)」
(略)
名は中山太郎、馴染みの間では号の丙子だけでおぼえられて居、ただ、たくまずに、涼しいように、群馬生まれの地味ともいえよう一味の遊侠性で、また小さくても度量といったものの見られる人柄であった。文の性質も「明星」型より「文庫」型に近く、またその通りかつては「文庫」寄書家の一人*2であった。
電報新聞で同僚*3であった彼らは、この後、それぞれ別々の道を歩むこととなる。羽仁吉一は自由学園を創設、窪田は独歩社に入社、中山は柳田國男と出会うこととなる。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
「すばる文学カフェ」更新。武藤康史氏の「読書日録」の6月9日の条によると、岩波の『志賀直哉宛書簡集』の発行はまだまだ時間がかかりそうだ。武藤氏は里見とんの書簡を担当。