神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

伊良子清白に保険の勧誘をされた伊上凡骨たち

伊良子清白は明治37年から39年まで帝国生命保険会社に診査医として勤務していた。ところが、保険勧誘のノルマがあったようで、日記には伊良子に勧誘された著名人の名前が記録されている。

(明治三十九年)
一月七日 日曜 午前中山丙子君を春木町二ノ六四に訪問し保険を勧誘す、加入することだけはたしかに約束せらる、此人野州足利の生にて話面白し 信州に関する地理的観察は興味をおぼえたり(略)

中山丙子は後の民俗学者中山太郎。伊良子は文庫派の詩人として知られるが、中山も『文庫』に投稿している(「中山太郎の出てくる小説」参照)。なお、この頃中山は電報新聞の記者であった(「松宮春一郎年譜」参照)。

(明治39年)
二月二十六日 月曜(略)与謝野氏を訪問す 晶子夫人保険に加入す 尚多数の紹介書を得たり(略)
三月一日 木曜 早朝和田英作氏を訪問し不在 転じて南町三丁目岡野栄氏を訪ひ保険申込書を受く(略) 次で伊上凡骨氏を訪ひ席上にありし岩田氏をも保険に入らしむ 岩田氏は一色氏の友人なりとぞ(略)千駄木林町に長原止水氏を千駄木町に夏目漱石氏を(我輩は猫である)西片町に上田敏氏を歴訪し保険を依頼せしも皆不成功 長原氏は沈痛夏目氏は洒落上田氏は快活 殊に上田氏の談話は室内の清掃と雛壇の華麗と相待て氏の文学を体読する思ありき(略)
三月七日 水曜 (略)次で曙町に岩田氏を訪ひ伊上氏にも会す 岩田氏の室は美術品骨董品を以て装飾せらる(略)また岩田氏の親戚らしき深見氏の画堂を見る(略)

与謝野晶子から多数の紹介書をもらって勧誘しているが、成績はかんばしくなかったようだね。「岩田氏」は、同月26日の条に「岩田郷一郎氏方に到り深見氏の保険を依頼せしも調はず」とある。凡骨については、盛厚三『木版彫刻師伊上凡骨』(ことのは文庫、平成21年3月) に詳しいが、それによると、凡骨は日記に出てくる岩田ら画家の作品を与謝野鉄幹が主宰した『明星』で手がけている。たとえば、前年の明治38年6月号では別刷の一枚物岩田の「森の画」を手がけ、作品の左下に「イカミ刀」と署名があるという。また、同月自ら編者となり『思ひ出艸』(金尾文淵堂)を刊行し、和田の「恋衣」など6枚の作品を一枚物の版画として手がけている。39年1月号には和田の「伊上凡骨肖像」を凡骨自身が木版にしたものが掲載されたほか、和田の「馬」「下総稲毛の海岸」や岡野の「善光寺」などを手がけた。また、同年6月号では長原の「短肱の人」を彫っている。
なお、「洒落」と漱石が評されているが、荒正人『増補改訂漱石研究年表』(集英社、昭和59年6月)は日記の公開前の発行なので、記載はない。