神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

トンデモバスター島田春雄の父翰への思い


三村竹清の日記に、

大正13年5月24日 朝 塩煎餅をもちて内田魯庵へゆく 松崎天民之たむさくてもうれる話 朝倉無声の本をきりとる癖と同しもの 西洋ニ多き話 島田翰 漢土之大家之書物を私したる事を列記して 自分を弁護せし漢文遺書を或判事ニ出して 自縊せし話 其遺書を官のものとして其判事之手元になく 尾佐竹氏ニたのミたるも手に入らさりし話(略)なときく


正しくは、大正4年7月にピストル自殺したとされる島田翰。次男の島田春雄は、明治39年3月生まれ。幼き頃に父を亡くした春雄は父のことをどう思っていたのだろうか。


森本忠『僕の詩と真実』によると、

島田君の父君もまた漢学者だったらしく、著述も若干あるらしいが、私は何も聞いてゐない。また島田君自身、あれほど誇らかに祖父君のことはしじゅう話題に上すのに、父君のこととなると一言半句も言及しなかった。それはすこし異様に感ぜられるが、私は強ひてせんさくしようとはしなかった。ずっと後になって吉祥寺に住む某君が近くの辰野隆博士を訪れた時、博士は朝日の島田君は僕の親戚に当るといふ話から、島田君の父君の噂をしたと某君は私に伝へた。それによると父君は天才肌の男だったがたった一つ、反社会的な或る悪癖があったと辰野博士は洩らしたといふ。事実かどうかは分らないがとにかく、父の子として島田君はあまり父君のことに触れたくない何かの事情があったものと思はれる。


春雄にとって、祖父篁村は誇りだったようだが、父への思いは複雑なものがあったのだろうね。


参考:昨年8月20日

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戦時下の鎌倉ペンクラブに負けじと、日本近代文学館の「夏の文学教室」(テーマは、「東京」をめぐる物語 Part2)。7月30日には黒岩さんの講演(「一九〇五年、戒厳令下の東京」)も。他は、鹿島茂小林信彦出久根達郎高橋源一郎赤瀬川原平らの名前も。毎日通学しようかしら。