神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

書痴仲間に衝撃走る!島田翰の自殺


三田村鳶魚の日記*1によると、

大正4年8月11日 林若樹氏ニ至ル、島田釣一ガ獄中ニテ縊死シタル由ヲ承ル。


死んだとされる島田釣一は、当時一高教授(昭和3年東京文理科大学教授)。実際に亡くなるのは昭和12年
大正4年に死んだ(正しくは7月にピストル自殺したという*2)のは、弟の島田翰だね。どういうわけか、釣一が死んだことになってしまっている。
釣一・翰兄弟の父は、島田篁村。翰の姉繁子は、服部宇之吉の妻。また、釣一の妻絲子は、川田順の異母姉。


辰野隆「東大回顧−濱尾・山川時代−」(『青春回顧』昭和22年1月)によると、

少年の頃からの記憶として、大晦日になると母が座敷の床の間に踏み台を置いて、吉例の掛物を懸け替へてゐる姿が今も目にありありと残つてゐる。(中略)署名は重礼とあつた。重礼とは碩儒島田篁村で、篁村夫人が又母と従姉妹であつたから、掛物を掛け了ると、母は退いて、暫く幅を眺めながら、(中略)昔の人は能書だね、と感服しては、島田家の噂をした。或る年の暮−当時僕は一高生であつたと思ふ−僕の好奇心をそそつたのは、重礼先生の次男翰の噂であつた。篁村、子ありと云はれた程の寧馨児で、家学を秉りて少年期から既に鋭脱し、二十代で早や堂々たる学者と成つたが、遂に終りを完うしなかつたと母は述懐してゐた。終りを完うしなかつたといふ言葉が漠としてゐたので、重ねて追求すると、母は妾たちが昔、論語で習つた、斯人にして斯疾ある、といふ病気だよ、と答へた。どんな病気かと更に訊ねると、翰さんは放蕩息子だつたのさ、と答へるのであつた。


とある。翰の母と辰野の母は従姉妹なのだね。


そうそう、トンデモバスターの島田春雄は、この島田翰の次男だよ。


追記:内田魯庵は『蠧魚の自伝』で、「本泥棒では金看板の札附」とか「寺の国宝の貴重書を懐ろへ捻込んで売飛ばしたので捕つて未決で首を縊つた男」としている。


(参考)2005年12月30日昨年8月15日昨年12月30日

*1:三田村鳶魚全集』第25巻

*2:高野静子『続 蘇峰とその時代ー小伝鬼才の書誌学者島田翰』による。