神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

武侠社に関するメモ


1 『秋田雨雀日記』第2巻から


昭和5年7月3日 (“犯罪科学”十五枚。(略))


昭和5年7月5日 (犯罪科学“ソヴェートの性問題”芝区南佐久間町二ノ一八伊藤隆文。(略))


昭和5年7月10日 「犯罪科学」のために“ソヴェートに於ける恋愛の社会化”について十五枚ほど脱稿。マヤコフスキーのこと、結婚問題、性問題等について。


昭和7年11月22日 雑誌「人情地理」のために「古都チフリスの思出」を六枚半ほど執筆、速達で送った。この雑誌は「犯罪科学」の改題したもので、写真を入れた面白い明るい雑誌にするということだ。犯罪物なぞよりはずっと意義があるだろう。


2 『吉村貞司 旅の余白』*1から


吉村貞司、本名彌吉三光(やよしかずみつ)は、彌吉光長(みつなが)の弟。
上記の書によると、


明治41年9月福岡県浮羽郡吉井町に五人兄弟の四番目(次男)として生まれた。


昭和6年 早稲田大学英文科卒業。同年秋、東京社・武侠社(婦人画報社の前身)編集部に勤務。以後、出版界で『婦女界』、『歴史小説』、『新婦人』等の編集長を歴任。


昭和7年頃 北野博美氏と識りあい、日本的なものへ眼をむける。柳田国男折口信夫両氏に惹かれながら、レヴィ=ブリュル、スミス、のちにレヴィ=ストロース、ケレーニー、エリアーデの影響を受け、神話学の独自の解釈の道をさぐる。


吉村については、10月9日に言及したように、『新聞人 坂口二郎<昭和編>』(草文書林、平成7年4月)に「昭和6年11月4日 午前、彌吉三光氏来る。「犯罪科学」社に入社、外交係となったと語る。」とある。「犯罪科学」社というのは、正しくは武侠社のことだったのだね。


3 『柳田国男全集』第29巻*2から


武侠社が昭和8年1月から発行した雑誌『人情地理』の第1巻第2号(昭和8年2月1日発行)から、第1巻第5号まで連載した「常民婚姻史料」のうち、上記の巻では「緒言」のみを収録しているが、その解題として「しかし、柳田の連載が佳境に入ったところで、『人情地理』が第五号で終刊となってしまったため、休止を余儀なくされている。」とある。


また、同全集第28巻には、『人情地理』の予約読者募集広告に載せられた柳田の推薦文が収録され、解題として、


発行所の武侠社は、雑誌『犯罪科学』を昭和七年十二月号をもって予定通り最終号とし、新春劈頭より『人情地理』を創刊、これは二年完結雑誌で、創刊号は十二月中旬の発刊、と告げている。(略)しかし、この雑誌、六月号は休刊となった。
最初の広告がいつ出されたのか不明であるが、本巻では[昭和七年]十二月に位置づけた。


武侠社については、2月3日6日のコメント欄参照。


(参考)「古本屋散策(56)武侠社・柳沼澤介」(『日本古書通信』第71巻11号、平成18年11月15日発行)から

柳沼は福島県生まれで十六歳で上京して興文社に入社、その後明治四十四年に押川春浪、小杉放庵などと武侠社を創立し、ナショナリズムとつながる少年文学を樹立した雑誌『武侠世界』を創刊する。その後どのような事情があったのかわからないが、昭和初期の「エロ・グロ・ナンセンス」と円本時代を迎えて、雑誌『犯罪科学』や円本の『近代犯罪科学全集』『性科学全集』を刊行することになる。(略)
武侠社は円本時代の終焉とともに消滅したようだが、柳沼澤介は小杉放庵との関係もあり、国木田独歩が創刊した『婦人画報』を創刊する東京社の経営再建を昭和六年に引き受け、見事に立て直し、(後略)この東京社こそ婦人画報社の前身であり、柳沼は昭和三十年代までその経営者であった。

追記:長友健二/写真 長田美穂『アグネス・ラムのいた時代』(中公新書ラクレ)を店頭で見かける。わしは、ラムはラムでもラムちゃんの方だすよ。ラムちゃんのフィギュアなら「ほすぃー」かも。誰ぞは持ってたりして・・・・


散歩の達人』2月号は経堂・千歳船橋祖師ヶ谷大蔵成城学園前の特集。植草甚一御用達の遠藤書店が登場。


NHKの「日本の、これから 団塊・大量退職へ」を見てるが、宮台真司先生、頭はいいのだろうが、早口で難しいことを言うから、何を言っているのかさっぱりわからん・・・

*1:吉村貞司先生喜寿記念刊行会、1985年10月

*2:筑摩書房、2002年7月