神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

月遅れ雑誌を読んで育った高橋正治が通う館林の書店・図書館ーーヨドニカ文庫で見つけた『高橋正治先生遺稿集』からーー

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均一台で未知の人の饅頭本(追悼本)を見つけた時は、できるだけ購入することにしている。買う基準としては、まったく無名のただの人よりも、ある程度の知識層に属した人の方が面白い。知人による回想文の他に、年譜、日記・書簡、遺稿なども欲しいところである。3年前に知恩寺の古本まつりでヨドニカ文庫の3冊500円コーナーから見つけた『高橋正治先生遺稿集』(中根道幸、昭和18年10月)は、その点から言って完璧に近い内容であった。高橋の経歴は、

大正元年11月 群馬県邑楽郡館林町生
昭和2年3月 館林尋常高等小学校高等科卒業
昭和2年4月 県立館林中学校入学
昭和11年3月 東京高等師範学校卒
同月 三重県立宇治山田中学校教諭
昭和12年3月 三重県立津中学校教諭
昭和13年5月 支那事変応召
昭和14年10月 津中学校復職
昭和15年4月 発病
昭和15年12月 依願免職
昭和17年5月 没 

東京高等師範卒で地方に住むインテリだったようだ。館林で静養中の日記も収録されている。

(昭和十五年)
八月十九日
(略)
暑さに参り疲労。藤野書店より民謡覚書*1、千鳥、銀の匙、届く、婦人公論も求む。
(略)
(昭和十六年一月)
廿四日
(略)
新井書店へゆく。柳田国男 豆の葉と太陽。岩波文庫ルナン イエス伝。ヘルン 骨董を求めて帰る。(略)
二月六日
(略)
図書館で二時間程火野葦平「河童昇天」をよんでくる。葦平氏には気の毒ながら詰らぬ本である。図書館といふ程広いものではない、むしろ図書室ともいふべき程度のもの、然し綺麗に片付いて日当りもよく、近所のカフエーの安レコードさへ聞えなければ文句はない。(略)
五月十六日
(略)塚場町並木町館林キネマ前金山を経て新井書店まで散歩、伊藤整「得納五郎の生活と体験*2」新潮、文学界各六月号を求め帰る。(略)

高橋は読書好きで多数の本を読んでいるが、紹介は一部に留めた。
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二つの書店が出てくる。3年前に古書からたちで入手した『全国書籍商組合員名簿:大正十四年三月現在』(全国書籍商組合連合会、昭和14年5月)で確認すると、新井書店は記載されている。藤野書店はないが、藤野松五郎の共進堂のことかもしれない。「図書館」は、昭和9年8月に開設された館林町立図書館と思われる。本書には読書好きの高橋の幼少期が分かる随筆も収録されていた。

 書物
 芥川龍之介の大導寺信輔の半生を読むと、信輔である作者が、貸本屋、図書館、古本屋等を少年の頃からあさり廻つて、書物を手あたり次第にむさぼり読む事が書かれてある。私の少年時代は極めて辺鄙な田舎の地で育つた為もあり、書物を沢山持つてゐる人も付近になく、読物は殆んど全て雑誌に限られてゐた。然し雑誌を求めて読む私の貪婪さは大導寺信輔の熱情に劣るものではなかつた。
(略)
藤野といふ雑誌文房具を売る店に、私は小遣を溜めると出て行つて、月遅れの雑誌を求めた。少年世界、日本少年、武侠少年、譚海それらの月遅れの雑誌の中で面白くて然も安いものを見つけた折の私の喜びはたとへやうがない程であつた。
(略)その少年は、この藤野にくると、得意さうに、面白さうな雑誌や講談本を好きなだけ包ませた。(略)そんな時、大抵私は、店の一番前の所にならべられた月遅れの雑誌、十銭か精々十五銭どまりの雑誌をあれこれとえりわける手をとめて、口をあけたまゝその後ろ姿を見送つては、いゝなあと思つたものである。
中学に入つてから文学書を貪り読んだが、あの当時程の熱情は覚えなかつた。(略)一三・三・二五

中学に入る前なので、大正末から昭和初期の話ということになる。月遅れ雑誌を読んで育った高橋は、教職にあったのは短期間であるが生徒に慕われる先生だったようだ。戦時下に6冊の日記の翻刻を含む二段組み230頁もの追悼本を出す熱意は、恩師への深い愛情と感謝の賜物なのだろう。

*1:柳田国男『民謡覚書』(創元社昭和15年5月)と思われる。

*2:正しくは、「得納五郎の生活と意見」