細江光先生に「キター」と言わせるようなネタは、中々見つけられそうもないが、とりあえず小谷野敦版谷崎潤一郎詳細年譜に未記載のネタを見つけたので報告。
劇作家秋田雨雀の日記は、様々なカフェでテンコ盛り状態の日記。林哲夫氏向きであるが、谷崎兄弟もしばしば登場し、小谷野氏向きでもあろう(でも、人名索引も事項索引もない)。
大正7年5月29日 夜、国民座の初日をみた。「円光」はどうも不自然なところがある。「野崎村」のお光の死に疑問がある。かえって久米君の「地蔵経[ママ]由来」のほうがよかった。江口君にあった。大きな男だ。谷崎潤一郎、長田秀雄の諸君とあった。
大正7年10月9日 夜、芸術倶楽部で次回の研究劇の脚本について相談会を開いた。第一、「三つの魂」第二、生田長江「温室」第三、谷崎潤一郎「十三[ママ]夜物語」に決定。
大正8年2月12日 午後四時ごろから、島村先生の追悼会へゆく。永楽倶楽部。須磨子問題はなんどでも問題になっている。(略)小川、生方、金子、高須の諸君の談話。ぼくも話した。谷崎、加納君と二時まで語った。
大正8年6月14日 午後二時から、大隈邸の「大観」の招待会へいった。(略)建部、岩野、上司、正宗、昇、中村、生方、谷崎、藤森、与里*1、その他三十四、五名出席。
大正8年12月27日 夜、足助君から百円の小切手をうけとった。帰りに谷崎精二、広津和郎二君と歩いてきた。谷崎君に一円五十銭たてかえてもらった。
大正8年12月30日 夜、谷崎精二君を訪い、スリッパのたてかえの金を返して町へでると、広津君にあったので、三人で「叢文閣」により、足助君と話した。
大正11年4月20日 夜、飯島友一郎家の室内劇をみにいった。谷崎君の「愛すればこそ」?と「藤娘」をやった。
大正12年3月5日 本郷座へゆく。「演芸画報」から「愛なき人々」(谷崎潤一郎)の評をたのまれた。「愛なき人々」は非常な愚作なので驚いた。人物はみな社会意識を欠乏している。谷崎君はもう進境がなさそうだ。しかも、三幕物の一幕だけやるということは無責任だ。
大正12年3月8日 「演芸画報」のために「愛なき人々」五枚を送った。作者の人生観を罵った。
*引用は、『秋田雨雀日記』第1巻(未來社、1965年3月)から
大正8年6月14日の「谷崎」は、『大観』(大隈を主宰とする雑誌)に執筆*2していた谷崎精二と断定してよいと思われるが、同年2月12日の谷崎はよくわからない。どちらでもおかしくない気がするけれど、精二の方だろうか。小谷野氏におまかせしてしまおう。