神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

加能作次郎と谷崎潤一郎・精二兄弟(その2)


加能作次郎については、松本八郎加能作次郎 三冊の遺著』(スムース文庫、20005年9月)に詳しいが、同書に参考文献して挙げられている谷崎精二「酒友、碁敵」(『早稲田文学』8巻9号、昭和16年9月)によると、


僕が学生時代、何か学生の会があつた折に島村抱月先生が当時の早稲田文学同人たちを引連れて出席された事があつた。相馬御風氏や中村星湖氏の顔は僕たちも知つてゐたが、その中に一人どうも誰だか見当のつかない人がゐた。
『あれは若しかしたら早稲田文学の営業部員だぜ』
僕たちはさう囁き合つた。(略)
加能君の名前は無論僕たちも知つてゐたが、加能君はその年に学校を出たので、当然若い青年であらねばならなかつた。ところが当夜の加能君は相馬さんや中村さんよりももつと老けて見えた。
これが僕と加能君との初対面である。(略)
僕としては良い飲み友達であり、無二の碁敵でもある彼を失つて哀悼に堪へない。


上記を参考にすると、精二と加能の初対面は明治44年8月から12月の間の事になる。


既に紹介したように『秋田雨雀日記』(大正8年2月12日(ただし、「加納」)、昭和5年3月5日の条)に谷崎(精二)とともに登場する加能。昭和16年8月5日に亡くなるが、秋田の日記には次のように記されている。


昭和16年8月5日 加能作治[ママ]郎君が肺炎で死亡した。八日告別式。


昭和16年8月8日 午後二時から加能作治[ママ]郎君の告別式に臨んだ。祭壇の左側には白衣の勇士姿の長男越郎君が座っていた。応召と同時に盲腸になったのだそうだ。いい子供だそうだ。痛々しい感じがした。長田(秀)、谷崎、広津、渋沢、舟木重信兄弟なぞに逢った。
(加能君告別式)


追記:谷崎兄弟と初対面の頃の加能が、市島春城の日記(『早稲田大学図書館紀要』第47号、第48号)に登場する。

明治44年8月16日 加能作次郎(校友)、島村抱月紹介にて来る。早稲田講演の記者を托す。


明治45年5月21日 加能作次郎、本田信教来る。学報并ニ早稲(田)講演のために東宮行啓の事、文明交流表彰会の事を談話して筆録せしむ。


明治45年5月23日 加能作次郎ニ展覧会之談話を筆記せしむ。