神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

文壇奇人谷崎潤一郎と生方敏郎


生方敏郎は、「文壇暗流誌」の(6)「文壇奇人傳」*1谷崎潤一郎について、次のように書いている。

谷崎潤一郎君はまた奇人伝中の人物たるを失はぬであらう。彼は創作の数に於いては殆んど流行児の誰よりも寡なく、易々として流行児になつた成金党である。それほど彼及び彼の藝術には特色的なアクドイところがある。それは「少年」「秘密」「飆風」と殆んど一作毎に色濃く著はれて来た。暗流誌氏が彼を見たのは雑司谷村の「森の会」に於て恰度隣り合つて坐つた時である。万事に贅沢なる彼はあやめの村醇口に合はず、箸の先にペロリとブラ下るさしみを気味悪相に眺めたままで、殆んど何にも箸を付けなかつた。(略)彼は「当世文士気質」と題して京都の新聞で借金を素破抜かれた。彼や長田幹彦等が荒して以来、文士は以前のやうな信用を京阪の花柳界に維持することが出来なくなつた。(略)彼に会ふと本所区某町何番地と電話番号までも刷り込んだ大きな名刺を出して「此所に居りますから是非お遊びに」などゝ云ふが、誰が訪ねて行つても其所にゐたことはない相である。彼は自分の居所をさへも他人に隠す癖を有つてゐるのである。


細江光先生は、「当世文士気質」の掲載紙を既に見つけているのだろうなあ・・・
生方が「本所区某町何番地」と書いている谷崎の住所はどこまで本当かわからないが、知っていたのであれば、もう少し特定できるところまで書いてほしかったものですね。


江口渙は「谷崎潤一郎の思い出」(「谷崎潤一郎月報4」、昭和42年2月)で次のように回想している。

私の大学生時代には本郷の下宿同業組合では、正月になると前の年に長期にわたって下宿代を滞納して、そのまま逃げるか追い出されるかした男の名前を、ずらりとならべて大きく印刷した紙を、玄関のよく眼につくところに張り出す習慣があった。
その頃私は本郷の弥生町の坂の上にある不破という下宿にいた。忘れもしない大正三年の正月のことである。不破の玄関にやはりそういう紙が張り出された。見ると頭から二つめに谷崎潤一郎という名がちゃんと出ているではないか。


本郷にいられなくなった谷崎は本所区(現墨田区)に逃走したか?


生方が谷崎を見たという「森の会」は、明治45年3月10日開催。その前に明治45年1月4日に紅葉館において開催された読売新聞社主催の新年宴会にも両者は出席しているが、記憶に残るような出会いではなかったのだろう。


ちなみに、生方が奇人として挙げたトップは例の奇人で、その他に岩野泡鳴、秋田雨雀安成貞雄、中村孤月、児玉花外、若山牧水なども奇人としている。


余談だが、生方こそ詳細な年譜、伝記があってよさそうなものだが、探し方が悪いのか中々見つからない。

*1:『文章世界』第8巻第14号、大正2年12月1日