神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

谷崎一族の多事多難


谷崎精二「日記」(『新潮』昭和2年12月号)によると、

十一月三日 
正午頃眼を醒すと伯父が来て茶の間で待つて居る。急いで顔を洗つてから伯父と対談。予想した通り伯父の用談は無心だつた。伯父から金策を頼まれたのは今始めてゞはないが、今度は大分金額が多いのでとても出来さうもない。神戸の兄と相談して何とか都合してくれと云ふのだが、神戸の兄だつてさうは応じきれない。伯父が最近其の養女になつて居る私の妹に対する態度が不快だつたので、今度来たら大いに詰問してやらうと思つて居つたのだが、向ふから先きへ泣言を申込まれてみると、気の弱い私には此方から何も云へなくなつてしまつた。今年になつて親戚ニ軒破産、一人は自殺の書置を残して行方不明、其の上此のM伯父迄生活に困つて居るので、今迄一切親戚との交際を断つて居た私も、向ふから泣き付かれると放つても置けす[ママ]、いつも閉口する。


「神戸の兄」が谷崎潤一郎で、「M」は萬平で正しくは叔父、「妹」は末。
昭和2年10月9日付けの潤一郎の精二あて書簡では「萬平氏へは、おすゑから話があつて、当座の金にも困るから三四十円貸してくれと云ふので、それだけは送つてやつた。が、それ以上は断る」とある。その他、この前後の谷崎兄弟の書簡のやりとりについては、小谷野敦谷崎潤一郎伝』に詳しい。
谷崎家では、既に大正4年伯父久兵衛が自殺しているが、その後も一族の不幸は続いたようである。


兄潤一郎の古い日記については本人が焼却したと書いていたと思う*1が、弟の精二の日記はどうなっているのだろうか。

*1:「私は思ふところがあつて古い日記帳を悉く焼き捨てゝしまつた」(「菅楯彦氏の思ひ出」昭和39年9月大阪高島屋「浪速御民菅楯彦展」パンフレット)