神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

ヨコジュンもビックリ!?岩野泡鳴の日記に薄井秀一登場


ヨコジュンさんが、『明治時代は謎だらけ』などで、夏目漱石山中峯太郎を紹介した人物として、その足跡を探求した東京朝日新聞記者薄井秀一。
その薄井を岩野泡鳴の日記*1大正6年4月3日の条に発見。


新潮、小此木、前島、天弦、中央新聞を訪ふ。薄井(秀)氏に逢ひ、東京朝日のクラブで玉突と碁とをやつた。


「薄井(秀)」が、東京朝日新聞記者薄井秀一である確証はあるのか、って・・・
腹立半分ブログ、じゃないや、面白半分ブログだから、固いことは言わないで!
大発見と思ったけど、ヨコジュンさんの本によれば、この頃までは消息を辿れるようだから、あまりたいした発見ではなさそう。ヨコジュンはビックリしないから、タイトルに偽りありか!?


薄井秀一の名前は、漱石全集の日記や書簡の巻にも見ることができるが、索引で簡単に検索できるので、発見というほどのものではないだろう。だから、紹介しない。


岩野泡鳴の日記には、谷崎潤一郎も登場する(明治45年5月25日、5月30日、6月16・17日の条)。
このうち、明治45年5月25日の条を紹介すると、


丸善へ行つたら、箕面電鉄の小林氏が正宗氏の画を見に来たので、氏の為めに一点を買つて貰ふことにした。谷崎(潤一郎)氏が来阪して文楽座に行つてゐるが、僕に会ひたいと云つてるとのことで、正宗氏と同座に行つた。(略)それから、谷崎氏並に画家達と電車で宝塚へ行つて、みよし野と云ふ旅館で落ち付いた。


この時期は、小谷野敦氏の年譜によると、


大阪の新聞記者をしていた岩野泡鳴(40)と一、二度遊ぶ。池田に住む泡鳴を、山本鼎(洋画家、31)、正宗得三郎(白鳥の弟、洋画家、30)、森田恒友(洋画家、32)、幹彦と訪ね、宝塚へ案内されるが、藝者をあげて遊ぶばかり。かくして、幹彦と祇園先斗町などで三ヵ月に及ぶ、「関西流連」をおこなう。


とされている。岩野の日記でより谷崎の行動の詳細がわかるわけだ。
もっとも、小谷野氏も既にご存知でビックリしてくれないか。しょぼーん。

*1:『岩野泡鳴全集』第14巻(臨川書店、1996年6月)