ヨコジュンさんは、どうされておられるだろうか。『明治時代は謎だらけ』であげておられる薄井秀一に関する情報のほかにも、別史料を発見。
松崎天民『人間世間』(磯部甲陽堂、大正4年10月。復刻・クレス出版)に、
国民新聞八王子支局長で、俺の友人である西岡秀雄君に招かれて、半日半夜を立川の鮎漁に興じた。同行者は東京朝日の薄井、蔓朝の伊藤、国民の渡邊、太田、東京毎夕の永代の諸君で、俺にとつては久し振の清遊であつた。*1
「永代」は永代静雄と思われる*2。薄井は、天民だけでなく永代とも面識があったことになる。天民は、明治42年1月国民新聞社から東京朝日新聞社に移ったが、その時、同社社会部には山本笑月、西村酔夢、坂元雪鳥、薄井秀一、美土路昌一がいたと、『人間秘話』(文行社、大正13年9月)に書いている。その後、親しくなったようで、前掲書には、修善寺温泉に「七八年前来た時には、東京朝日の薄井君なども一緒でしたが、眉目清秀の薄井君は、こゝの若い藝姑と一場のローマンスを作りました」とある*3。
この薄井と日本で最初にモダンガールという言葉を使った北澤秀一が同一人物だったというのは、私の説だが、『人間見物』(騒人社書局、昭和2年11月)で天民は、北澤を親友だったと書いている。
益友北澤秀一
北澤秀一君は親友の一人であつた。齢は私より若いけれど、頭脳の明敏な、常に有益な刺戟を与へてくれる益友の一人であつた。
新聞記者生活から、滞英三年、帰朝後は読売新聞に勤めたり、日本活動写真会社に入つて、愉快さうに働いて居た。(略)この夏、軽井澤で客死した。
北澤は大正12年以降読売新聞に寄稿はしたが、同社に勤めていたというのは、間違い(ただし、薄井は、明治期に読売新聞に勤めていた)と思われる。天民が、ずばり薄井秀一=北澤秀一と書いてくれなかったのは残念だが、天民(明治11年生)より年下と判明したことはありがたい。
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1987年から1989年まで東京大学教養学部長だった毛利秀雄氏の『生物学の夢を追い求めて』(ミネルヴァ書房・シリーズ「自伝」)202〜205頁に、中沢事件に関する記述。たいしたことは書かれていないが、「私自身はいろいろな考え方の人がいることが教養学部にとって望ましいことだと思っていた」と。